説教 20250615「苦難を神と共にあれ」

 創世記46章1-7

 イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。

28-34

ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

 ヨセフは、兄弟や父の家族の者たちに言った。「わたしはファラオのところへ報告のため参上し、『カナン地方にいたわたしの兄弟と父の家族の者たちがわたしのところに参りました。この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します。ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。

説教

 創世記の物語もいよいよ終段へとさしかかろうとしております。全50章にもなるこの創世記はその各段ごとにいろいろな人間を登場させてきました。神話的な物語としてはアダム、エバ、ノアなどが描かれましたが、その後ひとつの民族の歴史としてアブラハム、イサク、ヤコブが族長という立場で伝えられます。最終第50章に人生を終えたヤコブの埋葬が書かれるように、このヤコブまでが創世記の範囲と思われます。しかし終盤の中心は既に37章以後からヤコブの子ヨセフの活躍が大きく占め、ここから創世記がそれだけの物語では終わらない兆しを表し始めます。まさに創世記は次の出エジプト記へと続く神とその民との約束の物語の前編だと言えます。その創世記と出エジプト記が連続するひとつの物語であることの徴がここでは8節以下の「エジプトへ行ったイスラエルの人々、すなわちヤコブとその子らの名前」として出てくる家系図と彼らの70名という人数の叙述です。それはまさに出エジプト記の始まりの第1章の言葉、「ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった」という証言へと連結しなくてはならないものなのです。またすでに15章13節以下に出エジプト記の神の予言がされているのです。そこでは神はこう言います、「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう」と。このように創世記は出エジプト記へと一体となって続く神の約束の歴史物語なのです。そして創世記こそまさに「復活」を描く希望の物語です。世界は「混沌」という「死」あるいは「無」から神によって創造され復活させられます。ノアは洪水の破滅を越えて神との虹の契約へ導かれます。族長のアブラハム、イサク、ヤコブはやがて異境の世界にまで散り広がる子孫たちにまで届く神の契約を与えられるのです。

 遥かカナンから食糧を求めてやって来たユダたち一行に、大臣である自分がじつは実の弟であることをヨセフはついに明らかにします。理不尽ともいえるやり方で連れて来させた最愛の弟ベニヤミンを涙にむせびながら抱きしめ、兄たちの罪を赦して「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言うヨセフでした。まさに再会という復活です。兄たちはついにほんとうの兄弟の結びつきを復活させたのです。神に導かれる民としてのイスラエルの結束が再興するのです。しかしなによりもヨセフは自分の生きていることを父ヤコブに知らせ、父や家族たちを飢えから逃れさせてエジプトへと導きださずにはいられなかったのです。こうして神の家族が復活するのです。

 ヨセフの生きていることを知ったヤコブは「気が遠くなった」とあります。まったく死んでしまったと思っていたところに動かざる真実の事実として愛するヨセフの生存の知らせは、ちょうどわたしたちがキリストの復活を事実に対する驚きをもって信じるのと同じではないでしょうか。金縛りというのがありますが、就寝中に怒涛のように迫ってくる夢から逃げようとしても身体がまったく動けないない状態です。何者かに押さえつけられても抵抗できずその力に圧倒されるばかり。復活したキリストに出会う時、わたしたちはまさにそんな「気が遠くなる」ような信仰に陥るのではないでしょうか。

 そんなヤコブがヨセフのいるエジプトに立つとき、真っ先に聞いたのが神の呼びかける声でした。最後の族長であるヤコブは遥か南の異境エジプトへの出発地ともいえるベエルシェバで神を仰ぎ礼拝しました。それは異境へ赴く自分の信仰の思いを表す礼拝でした。そこでヤコブは聞きました。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」。大きな励ましの声でした。神はこれからイスラエルの歩もうとする道を祝福し守ろうとされるのです。それはいつか聞いたことのある励ましの声と同じでした。若い頃兄エサウとの軋轢から逃れ家を離れ、叔父ラバンのいるハランの地へと旅立った時、石の枕辺に聞いた神の声と同じものでした。

 我が子ヨセフのいる豊かなエジプトへ行く。そこでは飢えることも死ぬこともないであろう。しかしそこは異境です。飢えから逃れる。しかし事実は、彼らは神の与えられた地を離れて再び彷徨うのです。それはわたしたちがこの世の現実の中で悩み迷い嘆いて生きることとなんら変わらないのです。いやもっと虐げられ、傷つけられ、迫害されることでもあります。そんなわたしたちを知り心に留めるように神はヤコブに言うのです。「エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」。

 どこへ行っても、どんな苦しい時にあっても、どんなに自分が失われても、神はわたしたちのことを知っている、必ず連れ戻すと言われるのです。必ずわたしとあなたの約束のもとに連れ戻すと。それはまたこうも聞こえてきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしもとに来なさい。休ませてあげよう」。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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