説教20250601マタイによる福音書17章24-27

「労働は祈りをもたらす」

 聖書

 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

説教

 ユダヤの税金にかんする出来事でした。「神殿税」と呼ばれていた税金です。ただ、わたしたちがよく知っている税金の話は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの答えで知られた「デナリオン銀貨」で、これはローマ帝国に納めるべき税金でした。一方、この「神殿税」はユダヤ固有の税金で、出エジプト記30章によれば、神殿すなわち神の「臨在の幕屋」のための「命の代償金」として納めなければなりませんでした。ユダヤ人である以上20歳になったら居留地が国内国外を問わず、富める者も貧しい者も等しく銀半シケルを納めねばならず「半シケル税」とも言われ、ユダヤ人の証しのように考えられていました。1シケルは人の1日分の収入だったと言われます。その収入の中から半分を神の神殿つまり幕屋のために納めるべきでした。

 ですから、このシケル税金問題は、あのローマ帝国のデナリオン税金問題と違って、デナリオンが外国に支払う税金であるに対して、シケルは神に納める税金の意味を持っていました。つまり、ここでの支払い問題は「外国に心を売り渡す」というような類のものではなく、「神に献げるべき税金すなわち命の代償金とは本当に何か」の問題となって来るのです。

 この場面は何かを思いださせます。ここに現れる人物はきっかけとなった神殿税の集金人を除いて、ペトロそしてイエスの二人だけです。集金人に主イエスのことを問われたペトロが答えますが、それを聞いていたイエスがあらためてペトロに問いかけ、神にたいしてわたしたちが真に何を応答すべきかを教えるのです。そうです。ペトロがフィリポ・カイザリアでイエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した16章の場面です。17章のこの会話はその再現であり、また別の角度からのイエスご自身の告白です。

 集金人にペトロが神殿税を「納めます」と言ってしまったことを聞いた時、イエスはペトロに神殿の神とご自分との関係を王とその子に喩えて言うのです。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」この「あなたはどう思うか」も16章の「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」の問いかけに並行しています。この世の王は自分の子から税を取るのか、というイエスの問いからペトロは、イエスが神殿におられる神のひとり子であることを知らされます。そしてどうして「生ける神の子」イエスが父である神に物質的ともいえる税金を納める必要があるのかもわかるでしょう。まして神殿とは一言で言えば「幕屋」それも贖いの幕屋であり、命の身代わりの羊が献げられ屠られる場所です。であれば神の子イエスが命の代償の場である神殿つまり幕屋に金銭を支払うべきとはありえないことです。なぜならイエスが神殿に納めるべきものはまさにイエスご自身の命なのですから。

 ただ現実、イエスは神殿に仕えるユダヤ人をつまづかせないためにと、あることをペトロに命じるのです。それはペトロの生業(なりわい)であった湖での漁をして捕れた最初の魚の口にある銀貨を見つけ、それをイエスとペトロの分の税として納めよというものでした。これは湖すなわちこの世で信仰者が働くあり方を示しています。そして神から使命を受けた労働は祈りへとつながると教えるのです。この魚は神の子イエス・キリストの象徴です。キリストの十字架の贖いを知る者の労働は必ず自分自身が行う贖いの祈りへとつながるのです。そしてその魚の口には祈りが銀貨という実際の実りをもたらすのです。

 この物語はペトロに再びイエスが、ご自身が神の子であることを告げられた出来事です。ここでもイエスはご自分こそが神に納められるべき命の代償のメシアであることを告げているのです。

 この世に生きるキリスト者はこの社会の中でキリストの贖いを実践するのです。ただ一人、自分の命を人間の罪の贖いとして神にささげられたイエス・キリストに等しく、キリストを知る者も自身を「神の宮」すなわち神殿のように、隣人のために命を贖う者となることがゆるされているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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