説教 20250518創世記44章18~45章9

「死地に命の声を聞く」

聖書抜粋

 すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。

 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。

 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。

説教

  創世記はわたしたちに希望することを教えます。天地創造から始まりヨセフという人間の死に至るまでの長い物語のどこにもこの希望が芽吹いています。「希望」無しでは人間は生きられないと言うのです。全自然を超え全宇宙を超えて遥かに永遠の神の言葉の中で、なんとそれとはまったく反対の「無」の中から人間の命が生まれる。やがて創世記は最初のアダムとエバ、洪水を生き残るノア家族そして神に導かれるイスラエルの族長たちという一人一人の人生に的を絞っていく。しかし、じつはどの人間も創世記の冒頭に示された「地は混沌、闇は深淵」というまさに「無」という「出自」を背負った存在であることを創世記は忘れさせません。だから創世記は人類の輝かしい進歩の歴史を描いていないのです。イスラエルの民たちの栄光の発展を描いていないのです。「希望」そしてその根幹にある神への再帰すなわち「復活」こそが人間の人生であることを描くのです。「無からの創造」とは復活のことです。そこに人は生きるのです。

 それは世界的な飢饉の中でした。食料買い出しのためエジプトまでやって来たイスラエル人たちを見てエジプト宰相ヨセフは一目でそれが自分の兄弟であると見抜きました。いよいよ、時を知ったのでしょう。ヨセフは自分と同じ母を持つ愛する弟ベニヤミンや最愛の父ヤコブとの絆を復活させるため、ある策を講ずるのでした。故郷カナンからベニヤミンを連れ来るようにと命令し、一行の一人シメオンを人質にして彼らを帰らせます。戻った兄弟たちから事の次第を聞いてついに父ヤコブは、日ごろ心に疼いていた彼らへの憤懣やるかたない悲しみと怒りの思いを爆発させこう言うのでした。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」(42章36)。とはいえ再び食料も尽き、エジプトに残した人質シメオンをそのままにすることもできず、ヤコブも忍耐の果てに愛するベニヤミンを伴わせて彼らにまたもエジプトへと買い出しに行かせるのでした。こうしてエジプトに下った一行の中に弟ベニヤミンを発見したヨセフは懐かしさのあまり熱い思いがこみ上げてくるのを抑えきれませんでしたが、兄弟たちが不思議がるままに彼らを年齢順に華やかな食卓に着かせたのでした。さあ、こうして食料買い出しを済ませた兄弟たちでしたが、再び皆を故郷に帰らせる時、ヨセフはまたもひとつの策略を施したのです。それはかの愛するベニヤミンの買い出し袋の中にヨセフ愛用の銀の杯を潜ませておくというものでした。故郷へと帰りを急ぐ彼らを追ったヨセフの執事は仕組んだとおりにベニヤミンの袋から銀杯を取り出し、まんまと兄弟たちを問い詰めます。「だれであっても、杯が見つかれば、その者はわたしの奴隷にならねばならない。ほかの者には罪は無い」(10節)。エジプトに引き戻された彼らにヨセフは厳しくあくまで銀杯の紛れ込んだ袋の持ち主であるベニヤミンを奴隷にしてエジプトに留めよと言うのでした。そこから兄ユダは自分たち兄弟が陥らざるをえなくなった苦境を一切合切告白し嘆願するのです。

 「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」(30~32節)。それは父ヤコブの悲しみと嘆きへの測り難い苦渋の思いでした。

 ユダの嘆願は父ヤコブの死と苦しみを背負っての告白そのものでした。「父は死んでしまう」「悲嘆のうちに陰府に下らせる」という言葉に父を悲しませた自分たちの罪の自責と悔恨が張り裂けんばかりに言いあらわされています。「もしも、この子をあなた(父ヤコブ)のもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父(あなた)に対して生涯その罪を負い続けます」というヤコブへの告白はユダが身代わりの死をさえ懇願した言葉と言えましょう。

 そして、ここに事態が急転します。それまでエジプトの「上なる者」として命令していたヨセフが突然装いを脱ぎ捨てその生身の真実を明かすのです。「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった」(45章1~2節)。

 死地に、死をさえ覚悟したその時に真実の命が現れたのでした。向かい合う人間たちがどん底で互いにひれ伏した時、命が輝いたのでした。ヨセフは兄ユダの告白を聞いて「よろしい。よく言った」などと権威者のように上から赦しを下しはしませんでした。兄ユダの命を投げ出した告白の中に、父ヤコブの死ぬほどの悲しみを彼らもまた悲しんでいることを知ったのです。そして父ヤコブも兄弟たちも死の悲しみに沈んだその場所へとヨセフもまた王位を捨て権威をかなぐり棄て、彼らと同じ家族になったのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)とパウロは言います。それは謙遜と共感の中で人格を知り合うありかたです。高みに立って互いを知るのではなく、向かい合うその人の悲しみや痛みそして死さえも知ってはじめて相手を知ることができます。死地にこそ命の復活があるのです。

 これは家族の復活の物語という見方もできます。それは家族一人ひとりの痛みや弱さを知り理解することです。父や母の死ぬほどの悲しみ、兄弟間の齟齬や苦悩を地にひれ伏すほど分かち合い担う時、そこに家族の真実の絆がよみがえります。互いに赦せない時もあります。それは互いの悲しみや苦しみに無関心でいるからです。「あなたの苦しみはあなたのもの、わたしの悲しみはわたしのもの。通じ合うなんてできない」のは自分を過信している言葉です。あなたの苦しみをわたしも耐え、あなたの罪をわたしも悲しむ。そこに復活があります。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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