説教 20250504マタイによる福音書17章14-23節

 「 浅知恵はいつか滅びる 」

 聖書

 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。

 説教

 昔、中学生の頃、数学の先生から「答えだけ出してもダメだよ。答えを出す経過が大事だからね」と言われました。勉強以外でも結果だけが重要ではない。それまでの努力や道筋に価値があると言われました。だから人間の成長にとって回り道とか失敗はけっして無駄ではないと考えられたものです。ところが最近はそうではないようです。大事なものは最後に来る「答え」だけで、それを出すまでの時間はできるだけ短いほうがいい、できるなら無いほうがが良いというようです。最近の人はテレビのニュースやドラマ、いろいろの番組を時間を待ってゆったりと視聴はしないで、インターネットの配信で2倍速や3倍速の早回しで観たり、ドラマや映画の「要約サイト」で肝心なところだけを摘み食いするように情報を得ていると言います。そんな風潮の折にAIというものがもてはやされているそうです。それというのもAI(人工知能)はどんな難しい内容でもどんなに長い論文でも驚くほど最小限にまとめる「要約ツール」と呼ばれています。それが大学生たちに大変にうけている。それほどに、現代の人間は、もうこれさえあれば良いという「手短な答え」ばかりで武装し、後はそんな答えをただ声高に叫んで血眼になって突っ走っているように思われます。

 これと似た時代がじつは古代にありました。まさにイエスが生きていた時代です。それはヘレニズム・ローマ文化でそれまでの古代の学問や知識の蓄積が一気に噴出した時代です。そこでもっとも重要視されたのは「知恵」でした。ただその知恵は長い時間をかけて培った知恵や裏付けのある知識でもなく、その時その場で役に立つ実用的な知恵でした。それはこの実用的ないっときの知恵を身に着けさえすれば人は上に立つことができたからです。時代はギリシアの民主制、他人よりも際立った意見を言えば社会にも政治にものし上がることができたのです。若者たちは家柄や経済力に関係なく「言論」を支配すれば社会の中枢部に入っていけました。そのため世間には「ソフィスト」(詭弁家)と呼ばれる弁論術教師まで現れ、他人を言い負かすために「兎は亀に追いつけない」とか「白い馬は赤い」などと堂々と言ってのけたのです。今日でいえばなんとか評論家と自称する人々のようなものだったかもしれません。その根本には「人間は万物の尺度である」という考えがありました。つまり自分が物事の考えの中心で事の良し悪しは自分の判断で決まるというものです。そんな詭弁家は「他人を支配する能力」こそ第一だというのですそれは現代で言えば「マウントをとる」「議論の主導権を握る」ということと同じでしょう。他人を自分の考え方に引き込むというものです。かつてある総理大臣がイラク戦争後のサマワと言う地域に自衛隊を派遣した時、そこが戦闘地域だったため違憲問題になりました。その時総理は「自衛隊の行くところだから非戦闘地域だ」と言って国会を言いくるめてしまいました。オウム真理教は「ポア」と言って仏の教えに従った殺人ならそれは殺される人間を幸せにすることになると言いました。ある若い女性は「ワタシの身体はワタシのもの。だから売るか売らないかはワタシの自由」と言って売春をしていました。多くの人々がこうした詭弁でしかないような知恵や知識で、自分が他人や万物の上に立つ一番の尺度のようになっています。それはいつのまにか自分を神のように思っている傲慢な偶像の姿ではないでしょうか。

 イエスが山を下りてきた時、まさにそんな悲しむべき人間の状況が繰り広げられていたのです。それは持てる知恵や知識また技が病と言う「悪霊」に屈伏して惨めな弱さをさらけ出している情景だったのです。かけ寄った男は息子を救うようにイエスにひざまづき言いました。「主よ、息子を憐れんでください」。これは「キリエ、エレーソン」です。息子はてんかんでした。「火の中や水の中に倒れる」というのです。愛するわが子の自殺行為に父は身を引き裂かれるほどだったでしょう。それは自分が死ぬ以上に苦しく辛く情けない思いであったにちがいありません。さらに「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」と頼みとする弟子たちの癒しの失敗に絶望の淵に落とされていました。この言葉の裏には弟子たちやイエスに対する遣りどころのない嘆きが込められているのではないでしょうか。そしてその嘆きはイエスを突き動かし、激しい怒りの感情さえ沸き立たせたのです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。この聖句の段落はどう読んでも愛と憐れみに溢れたイエスの癒しの場面と言うよりも、てんかんの子を癒すことの出来なかった弟子たちへの怒りさえ伴ったイエスの悲嘆の思いを綴っていると言えるでしょう。てんかんの子から悪霊を追い出した後に、みずからの無力を恥じて「ひそかに」人目を避けて弟子たちがやって来ました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と聞く弟子たちにイエスは突き刺すような一言を言ったのです。「信仰が薄いからだ」と。ただちょっと聞くと信仰「軽い」や「少ない」とか「弱い」というように聞いてしまいます。でも問題はそうではありません。信仰の量の少なさではありません。いや弟子たちはむしろ自分の信仰に自身を持っているのです。「信仰が薄い」は原語「オリゴピスティア」です。それは「信仰を二の次にしている」ことです。あるいは「信仰をないがしろにしている」という彼らの傲慢な気持ちを糾弾しているのです。「なんと信仰のない、よこしまな時代」と嘆くイエスの叫びは、詭弁のような知恵や知識によってこれはなんとでもなるとタカをくくっている弟子たちのむしろ肥大化した信仰を批判しているのです。だからイエスは「からし種一粒ほどの信仰」と言うのです。信仰とは「からし種一粒ほどの信仰」です。ちっぽけなからし種そのたった一粒。すべての飾りを取り払った一粒だけのからし種。信仰とはそのようなものだと言うイエス。「立派な信仰」や「正しい信仰」や「真の信仰」など存在しないのです。信仰は量や重さ、大きさのように量れるものではありません。「正しい信仰」や「熱心な信仰」、「強い信仰」などはただ人間を美化した美辞麗句にすぎません。神を讃えた言い方ではありません。信仰とは、ただ信じるか信じないかです。「からし種一粒ほどの信仰があれば」。信じるか否かなのです。みずからが正しくあるためにではなく、イエスの前に立ちただ信じる、イエスを信じる。それが信仰です。「強く」や「熱心に」や「深く」をすべて取り払いましょう。「ただ信じる」。それだけで、神が耳を傾けてくださる信仰となるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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