説教 20250420「絶望からの復活」

 コリントの信徒への手紙一15章12-19

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

説教

 聖書の核心は「復活」にあります。キリストの教えも神の国の福音も究極「復活」を伝えるものに他なりません。この15章の冒頭でパウロはコリントの信徒たちに告げ知らせた福音の「もっとも大切な」核心こそ「キリストの復活」だと言います。キリストは十字架に死んで葬られた後三日目に復活し一番弟子ペトロに「現れ」他の弟子に「現れ」さらに五百人以上の者に「現れ」たとパウロは書きます。この「現れ」は「(眼前に)見られた」とか「眼に留った」「目撃された」という語で「復活」がちょうどアリバイ証明のように動かし難い事実であることをあらわします。確かに記録される現実として復活が起きたというのです。

 復活は聖書のギリシア語では二つの言葉で言われています。「アナスタシス」と「エゲルシス」ですがどちらも元々は「立ち上がる、起きる、起き上がる」という意味です。この12節でも日本語訳では二つとも「復活」となっていますが、もとのギリシア語では最初が「エゲルシス」のほうで後が「アナスタシス」のほうです。ちなみに英訳では最初が「raise」後が「resurrection」となっています。

 聖書は復活を伝えると言いました。聖書はいたるところに復活の出来事を描いているのです。「タリタ・クム」(マルコ5章41節)という言葉はまさしく「復活」をあらわしています。百人隊長の死んでしまった娘を復活させられた時、イエス・キリストはそう少女に呼びかけました。「少女よ、起きなさい」と訳されています。そこで起きたことはじつに「復活」だったのです。イエスに癒されたシモン・ペトロのしゅうとめは「起き上がってイエスをもてなし」ました(マタイ8章15節)。これも復活です。4人の友人に担ぎ込まれた中風の人はイエスに「起き上がって、床を担いで家に帰りなさい」と言われ立ち上がりました(マタイ9章6節)。これも復活と言えます。イエスがエルサレムに入られる直前に会ったバルテマイも「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(マルコ10章49節)と告げられ、収税所に座り続けていた弟子のレビも「従いなさい」の声に「立ち上がり」ました(マルコ2章14節)。イエスに出会って癒された人々は、イエスに招かれ従って行った弟子たちも「復活」したのです。他ならぬパウロもなんとイエスを迫害に向かう途中、ここにあるように復活のイエスの現れに出会い、いっ時目が見えなくなったまま起き上がってイエスを信じる道へと導かれました(使徒9章8節)。

 じつは旧約聖書もそう言えましょう。「復活」が大きなテーマとなっていると言えるのではないでしょうか。創世記の天地創造は「混沌と闇」(創世記1章1節)からの復活をあらわし「無からの創造」とも言われています。出エジプトの旅は「乳と蜜の流れる」約束の地への回帰であり復活です。預言者エゼキエルは異境バビロンに捕囚された民の復活をまさしく枯れた骨から血肉かよう生きた人間の命の回復として描くのです(エゼキエル37章)。

 でも復活はどこに起こるのでしょうか。よく言われているのは、世の終わりの最後の審判の前にそれまでに死んだすべての人間が、まさに使徒信条にあるように「生ける者と死ねる者」に分けられるために復活させられるというその時のことと考えられています。しかしそれは深く考えるとじつに抑圧的な定義ではないでしょうか。それは西洋の中世キリスト教の威圧的権威主義的な政治的側面をあらわしています。それは復活ではなくただ取り調べと裁きのための「召集」のような「蘇生」にすぎません。

 しかしイエス・キリストとわたしたちの復活は「絶望からの復活」です。それは命の復活であり死の滅びであり罪からの解放にほかなりません。難しいことを言うよりこう言いましょう。復活は悲しみから救出されること、苦悩を克服することであり、日々の絶望からの復活だと。さらに言えば病気や障害の悩みをものともしないこと、借金苦や社会的敗北たじろがないこと、嫌でたまらない自分のどんなところでも好きになれるれること、敵視してくる人間や他人の中傷を笑い飛ばすように自分を愛おしく感じること、そんな新しい日々の生き方それが「復活」なのです。

 「オラトリオ・メサイア」は力強く生き生きとした「ハレルヤコーラス」で有名です。そして「オラトリオ・メサイア」も復活をうたっていると言えるでしょう。でもこれを作曲した時ヘンデルは人生のどん底にあったのです。人気を誇っていたオペラ劇場の失敗、借金、競合オペラ座による歌手引き抜き、スポンサーの撤退、脳卒中などの健康悪化、もう死をさえ考えました。しかしそんな時、ジェネンズと言う作家から渡された聖書のイエス・キリストを描いた台本に向かっているうちについにヘンデルの命が輝き始めたのです。推察ですがヘンデルはこの台本に隠された大きな秘密があることに気付いたかもしれません。というのもこの「メサイア」台本が第1部と第2部でキリストの到来預言や降誕、教えなどの生涯を描き切っているのにそれで終わらず、何故か第3部が付け加えられ、そこには葬儀用の聖書の語句が充てられている。それになにより不思議なのは2部までのキリストの生涯なのに最も大事な「復活」が一文字もない。いったい「復活」はどこに?それこそがこの3部に分れた台本に隠された、しかし究極の秘密だったのです。ヘンデルはその秘密の仕掛けに気付いたでしょう。キリストの復活は第3部の葬礼の聖句の中で歌われると。葬礼とは復活の確認ではないか。永遠の命の約束ではないか。それは、キリストの復活はキリストを讃える人間の復活なくして現れない、ということです。復活とは死んだけれどまた生き返るということではありません。聖書の言う「復活」は、キリストを信じる人間のうちにこそキリストは復活するのだということです。ここにパウロが言っているとおりです。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」(13節)わたしの復活となってキリストは復活されるです。しかしわたしが復活するなら、そこに生きているのはただ救い主イエス・キリストなのです。生きているのはわたしではなくキリストがわたしの中で復活し生きているのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2章20節)。

 キリストはわたしの孤独の中に住まわれる。ラザロの墓のような死の恐れの中のわたしに呼びかけられる。弱さにうずくまるわたしの手を取られる。そして復活が起きる。わたしがキリストを見上げ、その声を聴く時、わたしの復活が起きる。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。