説教 20250406「苦しみによってあなたを助けるメシア」 - 光を救う闇
マタイによる福音書17章1-13節
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
説教
ある日イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られた。すると彼らの前でイエスの顔が光輝き、その服は真っ白に光りました。見るとそこにモーセとエリヤも現れイエスと語り合っています。これに驚いたのでしょうか、ペトロは訳もなくその三人のために仮小屋を建てましょうと口走ります。しかしそうするうちに光輝く雲が出てきてそこにいる全員を覆い包んでしまいますと、その雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」とイエスが洗礼を受けられた時に天から響いたと同じ言葉が雲の中から聞こえてきました。弟子たちは恐怖におののいて地面にひれ伏していましたがイエスに「起きなさい。恐れることはない」と声をかけられ見回すとあたりは何事もなかったようになっていました。イエスは三人に今見たことは口外してはならないと命じられますが、これが「山上の変貌」と言われている出来事です。こののち下山の時、弟子たちは先ほど目にした預言者エリヤについてイエスに質問したりして、それが洗礼者ヨハネとしてイエスに先立つ人物であったことを知ります。
イエスの時が迫っていました。イエスがガリラヤを拠点のようにして遠くはティルス、シドンなどの異邦地方まで足を運び人々を癒したり、教えたり、また弟子たちを各地に送り出してして三年にわたり神の国の福音を伝えて来られましたが、それがひと段落着いた頃、ご自分について弟子たちに訊ねられました。「あなたがたはわたしを誰と言うか」。都エルサレムから探りにやって来たであろうファリサイ派や律法学者から律法や安息日について論争をしかけられこれに応えられたイエスでしたが、ここにいよいよご自分の歩むべき道と為すべき業(わざ)を心にはっきりと強く意識されたのです。それは決断の時でした。ペトロから「あなたはメシア、生ける神の子」と告白を受けては、ついに自分の口から「十字架」をあらわし、エルサレムに至って受難の業を背負う決意を弟子たちにも露わにされたのでした。
まさに受難の予告の直後、この山上の変貌がありました。山上の変貌とはイエスがまさにメシアの本当の意味を体現する出来事でした。山とは旧約聖書に出てくる「神の山であるホレブ山」を意味します。それは救済者のイニシエーションすなわち通過儀礼と言うべき出来事です。ここには旧約聖書を象徴する人物二人が登場します。モーセとエリヤ。この二人ともホレブ山で神に会い語った人物です。そしてモーセは律法与えられ、エリヤは預言を与えられました。冒頭に六日の後とあります。それは神と出会う礼拝の日を象徴しています。その礼拝のホレブ山でモーセ、エリヤと並び立つ中、イエスは再びあの洗礼の時と同じ神の言葉「これはわたしの愛する子」をメシアの任命の言葉として与えられたのです。
気になるのは、この神の言葉は深く濃い雲に覆われ包まれた中で告げられたという情景です。でも思い出せばモーセは「雷鳴、稲妻、厚い雲」の中で十戒を授けられ(出エジプト記19章)、エリヤも激風、地震、火をかいくぐってのち静寂の中顔を覆って神の声を聞いています。またエリヤは偶像バールの預言者と闘った時、海を渡って神の雲が広がり雨を降らすのを迎えました(列王記上18、19章)。
興味深いのは神が厚い雲の中から語るということです。なぜ神は雲をつうじて語るのでしょう。出エジプト記では神は「火の柱、雲の柱」によって人々を導いたとあります。後世の聖画に雲の中から出る手を描いたものがあり、雲は神の存在を表わすと言われます。でもなぜ雲か。
エックハルトという中世の神学者は「栄光の闇」と言いました。闇が輝く。闇の中にこそ神がおられ、そこで語り出される。闇とは苦しみのことです。五里霧中という漢語がありますが、自分では何とも手も足も出ない悩みと苦しみの中に閉ざされた時、そんな絶望ですべてを投げ出してしまった時、そこに神は語り出されるというのです。これこそこのイエスも弟子もモーセもエリヤも覆い包んでしまった「雲」です。その絶望ともいえる雲に覆われた中でイエスはメシアの道を歩み出されたのです。
それはまたイエスが暗黒の中で十字架につけられ、神に叫ばれる姿を暗示しているようです。イエスは人の罪の深さの闇に苦しみ悩むほど、愛と救いを実現せずにはおれない神の思いを自覚されたのです。
山上の変貌、それは苦しみや悩むことなしでは愛することができないという救いを決意されたイエスの決断の時であったのです。
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