説教マタイによる福音書16章21-28「人生の邪魔もの」
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
説教
12年間くらい教誨師をしたことがあります。ひとつの少年院でしたが、少年たちは傷害罪や窃盗罪、強盗や暴行の罪でそこに生活するわけです。何人かの教誨師さんが一対一の個人面談や複数の子どもたち相手のお話をされますが、ある一人の先輩教誨師さんからの体験談を伺いました。粗暴犯罪を犯した少年に個人面談を続けていた。その教誨師さんは人に暴力を振るうことの誤りや社会のルールの大切さを噛んで含めるように教えたといいます。命の尊さや他人を尊重することなど具体例も挙げて納得させたのでした。面談を始めて3か月ほどは話を真面目に聞いていた少年でしたが、それを過ぎたころから突然、少年院内でいろいろ問題を起こしだしたのでした。担当教官に反抗する。約束を守らない。作業を投げ出す。逃亡を企てる。とうとう反省室に入れられてしまうほどになってしまいました。面談をしていた教誨師さんはその時のことを深く顧みられてこういわれました。「100パーセント正しい忠告や教えは役に立ちませんね。かえって逆効果を生んでしまうものです。」苦い経験を噛みしめるようにそう言われてました。
「100パーセント正しい忠告」は正しいどころか「絶対に正しい」わけです。一つの抜け穴もなく文句ひとつ言えない完璧さで人を従わせようとしますから逆らいようがない。100パーセントの「絶対」から外れることは生きる資格がなく死ねと言われるようなことです。それであの少年は自暴自棄になってかえって悪いことをせざるを得なかったのです。
フィリポ・カイザリアでイエスから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた時、弟子のシモン・ペトロは間髪おかずに一言「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのでした。それは問われたイエスの心を打ち「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とまで言わしめたのでした。ペトロがそう言えたのは天の父である神が彼に働きかけられたからだと言われたのです。人間の考えや配慮や忖度からでなくペトロ自身が自分の思いをかざることなく告白し、神に応答しようとしたからこそ言えた告白なのだ、とイエスはペトロを祝福したのでした。
ところがこの直後祝福とは全く反対の怒声とも思えるようなイエスの叱責が同じペトロに向かって投げつけられるのです。それはペトロの「あなたはメシア」との告白に応じてイエスがやがて背負うべき運命を心から打ち明けられた時に、ペトロが取った行動と言葉、イエスへの「忠告」に向けられたものでした。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」のでした。イエスは「あなたはメシア」とのペトロの告白を受け、自分からもついに内に秘めたメシアの真の運命を明らかにしよう、さらに弟子たちと共有しようと思ったのです。エルサレムでどんな目に合うか、ユダヤ教権力者の手にかかって受難され、ついに殺され、そして三日目に復活する。それは「打ち明ける」とあるようにイエスの内に秘めたメシアの悲しんでも悲しみ切れず痛んでも痛み切れない罪の贖いの道への悲痛な決意を「吐露する」言葉だったのです。
ところが心の最奥から振りしぼるように受難を告白したそのイエスを横から腕をつかみ有無を言わさず皆の前から引き離そうとする力が働きました。見るとそれはたった今「あなたはメシア」と告白したペトロでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをわきへ引き寄せて強引に忠告しようとしたのでした。三文芝居なら「ああ、そうであったか」とか「いやいやこれはどうしても言わねば」となるかも。しかしこの時のイエスは忠告者ペトロを蹴散らすように言ったのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と。「サタン」はご存じのように「悪魔」の名前です。怒りに発した形相でペトロを「サタン」とまで呼んで叱りつけるイエスを思い浮かべずにおれません。いったいなぜ。イエスは言いました。ペトロは「神のことを思わず、人間のことを思っている」からです。でも「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」はペトロの親切心でしょうし、弟子を率いる師が言うべき言葉ではないと思われたでしょう。でもそれも三文芝居にほかなりません。それこそ「100パーセント正しい忠告」そのものです。それは言い返そうとする口をいやおうなく塞ぎ、自分の考える正しさで押しとおし、自分の忠告が絶対に正しいと自己絶対化するものだったのです。相手のためを思うよりむしろ自分のほうが正しいと言って、逆に相手を否定している偽りの忠告なのです。
この後イエスはこう言ったのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」これは人生の目標を言っている言葉と言えるでしょう。あなたは何を人生の目標にしているか。あなたの人生の目標は何か。わたしたちの多くは幸せになりたいと願っている。その幸せは富や財や地位それ以上に誇りなどがあるでしょう。でもどんな高尚な目標であれ、それにはつねに「自分の」という言葉が付きまとうのです。自分の富、自分の財、自分の地位や自分の誇りです。どんなに辛くても自分には誇りを持とうと言います。確かに誇りがなかったら自分は潰れてしまうかもしれません。でもどんなに気高い誇りにも「自分」が付いてまわる。いや自分を目的にしている。自己追求しようとする。100パーセント自分の正しさです。しかしイエスは言う。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。それは「あなたの人生はあなたが邪魔している。そして失敗させている」ということです。自分、自分という時、あなたは自分を見失っている。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
自分の十字架とは何でしょう。「あなたのために死んだメシアの十字架」であり「隣人のためにあなたが死ぬべき十字架」ということです。十字架は自分一人の自己犠牲の場所ではありません。わたしたちが繋がり合う場所です。救い主と繋がり、隣人と繋がり合う、そこが十字架です。十字架を負うとは自分独りの犠牲的行為ではありません。むしろ独りであることをやめる場所です。100パーセント正しい忠告をしたペトロは「サタン・そそのかす悪魔」とさえ呼ばれました。人間は自分をほめそやしてくれる一見正しい支配者を拝しそれに従い結局自分を失います。
イエスがわたしたちのために十字架を負われたのであれば、わたしたちは隣人のために十字架を背負い、そして生きることがゆるされているのです。
0コメント