説教 20250216 「懺悔 過ぎし日の罪を嘆け」

創世記42章1-17節

 ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」と言い、更に、「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言った。そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉が襲っていたからである。

 ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。

 彼らは答えた。

 「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。

 ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。

 ヨセフは彼らに言った。

 「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」

 彼らは答えた。

 「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」

 しかしヨセフが、「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たにちがいない」と言うと、彼らは答えた。

 「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」

 すると、ヨセフは言った。

 「お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしそのとおりでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ。」

 ヨセフは、こうして彼らを三日間、牢獄に監禁しておいた。

説教

 「宿題」は英語で「ホームワーク」Home workと言いますが、他にも「アサインメント」Assignmentという言い方があるそうです。学校の先生が「家でやっときなさいよ」と生徒全員に出すものをホームワークと言いますが、アサインメントというのは「割り当て」という意味で各個人に対して負わされる任務とか課題というようなものです。「人生の宿題」とか「一生の課題」というときにはアサインメントでしょう。つまり死ぬまでにやり終えておかねばならない務めとか解決しなければならない問題のようなものです。小中学生なら「あ~あ、今晩中にするのかあ」とこれからしないといけないと思うのですが、「人生の宿題」となるとむしろ「今までどうしてやって来なかったのか」とか「これをやらずによく生きてこれたな」とか後悔がのしかかってくるものです。この42章からの物語はそんな「やり残した人生の宿題」にヨセフや兄弟がどのように直面し向かったかを描いたものとして読んでもよいかと思います。

 エジプトに売られ奴隷となってしまったヨセフは王ファラオの夢の解き明かしの功績によって召し上げられところから始まり、ついに大臣宰相の地位にまで昇り、エジプトの王に匹敵する支配者にまでなりました。「ああ、めでたしめでたし」で終わったらたんなる「わらしべ長者」のような「出世栄華物語」で終わってしまうでしょう。しかしこの長い一連のヨセフ描写は旧約聖書の中で、とりわけそのイスラエルの歴史物語の中でぜったいに欠くことのできない重要なターニングポイントとしての意味をもっていると言わねばならないでしょう。

 ヨセフは王ファラオの見た夢から7年間の豊作とその後の7年間の飢饉を予言し、飢饉に対する適切で聡明な対策を進言しました。その優れた能力を認められ、王から最高位の大臣に任ぜられエジプトを襲った飢饉から救ったのでした。しかし近隣の世界は飢饉を乗り越えることができず、ヨセフの故郷もその例に洩れませんでした。カナンではいち早く父ヤコブがエジプトの豊かな富を聞きつけ、息子たちにエジプトに買い付に行くように言いつけたのでした。息子たちはそれを聞いてもどことなくうろうろしと「顔を見合わせ」ていたといいます。「エジプト」と聞いて心に何か思い当たるフシがあったのです。それは過去に彼らが犯した忘れることのできない事件の記憶でした。それはまさしく末っ子ヨセフの失踪の出来事でした。それは兄弟たちの中に交わされた「あんなヨセフなど殺してしまおう」という陰湿な悪意から始まり、殺しはしなかったものの穴の中に落とし放置する間に、ヨセフがミディアン人によってエジプトへ連れ去られてしまった事件でした。自分たちの悪事を隠すために動物の血をぬぐったヨセフの上着を持ち帰り、ヤコブには野獣に殺されたと偽った心のやましさ、エジプトと聞いた時そんな過去が兄弟たちの心を締め付けたたのではないでしょうか。

 この描写の流れは題を付ければ「ヨセフと兄弟たち、父との再会」というもので、およそ47章まで続く長大な物語です。ただこの飢饉にまつわる物語はまさに「人生の宿題」のように、なにかの決着を迫るようにヨセフにとっても兄弟たちにとっても、そして父ヤコブにとっても無視することができない力を帯びて迫ってくるのです。そしてここからはヨセフに特有のあの「夢」にかんする異境的な叙述はまったくされず、むしろ過去をよみがえらせようとするヨセフ、そして突きつめるように迫って来る過去のあやまちの前にうろたえるて立ち尽くす兄弟、さらにその真相を知って父の内面によみがえる愛情の描写がじつに生々しく刻明に描かれるのです。

 父ヤコブにいわれたとおり、鬱々としながらもヤコブの息子たちはエジプトに向かい到着しました。そこで待っていたのは食料の販売監督にあたっていたまさにヨセフその人でした。この流れはじつに端的で一直線に引き寄せられるように最初から彼らはヨセフに出会うのです。さらに創世記は「ヨセフは一目で兄たちだと気づいた」と書きます。この光景はあたかも過去のあやまちに重い心で日々を過ごし、傷癒されぬまま心も晴れずに生きてきた兄弟たちがついにその苦悩の原点に捕捉されれてしまうような情景と言えましょう。

 目の前の大臣がヨセフだとは知らない兄たちは食料の買い付けを願いますが、ヨセフは兄たちにある策を仕掛けます。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」彼らを肝心なヨセフとの過去へと連れ戻すために少しずつ罠をかけていくのです。兄たちは「食糧を買いに来ただけ」とか自分たちは「正直な人間」とか言い訳しますが、ヨセフはエジプトの「手薄な所を探りに来た」回し者つまりスパイだと疑いをかけ、帰らせようとはしません。でもそれもこれもヨセフ自身がもっとも心を寄せるカナンの父ヤコブの家に昔のように繋がろうとする願いがあったからなのです。考えてみると父ヤコブ自身も族長の立場でありながらずいぶん家から離れて人生を過ごしましたが心では「お前をかならず故郷につれもどす」という神を信じていました。それと同じくこのヨセフもはるか異境のエジプトの支配者となってしまったけれどもなおも神ヤーウェの民の人間としての思い心の底に持っていたのです。

 そして、いよいよヨセフは兄たちをあやまちの過去、すなわち罪の原点に連れ戻そうと、ある意味を含んだ要求を突きつけます。

 「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」と兄たちが身内の内情を説明しだすと、ここぞとばかりヨセフは言ったのでした。

 「お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。その点について、お前たちを試すことにする。」いよいよヨセフは核心をついて兄たちに下の弟のこと、失くした「もう一人」に心を向けさせます。そしてある条件をつけて兄たちの行動をこう問います。「いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。」

「回し者」かどうかを確かめるのに末の弟を連れてくるように、とはへんな要求ですが、でもそうしなければ監禁された自分たちはきっと処刑されてしまうということです。

 ヨセフの要求のポイントはしだいに「弟や兄弟の絆」に絞られていきます。ついに兄弟たちも「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」と21節であのヨセフとのいきさつの根幹にたどりつきます。その兄弟たちの後悔や嘆きはヨセフの耳に入り彼は物影で泣いたのでした。

 結局シメオンが一人だけ人質にされ、他の兄弟は買い付けも果たして帰ることはできますが、再び末の弟であるベニヤミンを連れて来なければシメオンの命が危ない。さらに壁となるのは父ヤコブでした。家に帰りすべての状況をヤコブに話しましたが、ヤコブは「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」「この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ」とベニヤミンを行かせようとしません。

 これは故郷から失われたイスラエルの一人が、失われて人生を変えられてしまったことによって再会した時、故郷を救うことになったという神の数奇な計画の物語といえましょう。ただ人が再会するために人間は重い痛みを背負わねばならないことを教えていると言えます。人間どうしが出会い向き合う合うためにはそれぞれの告白を明らかにせねばならないのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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