説教 20250202 「人間を評価するなかれ、告白をせよ」
マタイによる福音書16章13-20
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
説教
信仰はつねに「我と汝」です。「神とわたし」の係わり、語る神と応答するわたしの一対一の関係です。神とわたしのたった二人になることです。そこには第三者はいません。相談者や助言者はいません。また信仰の手本や模範もありません。神を信じる信仰に理想の形というものはないのです。神が問いかける時にわたしがなすべきことはただそのままを「告白すること」つまり自分の心を開いて自分のありのままを答えることだけなのです。
イエスは「五千人の食事」をされました。「四千人の食事」もありました。子犬でいいからと恵みのパン屑を懇願したカナンの女につきまとわれました。ガリラヤ湖のほとりに来れば何千人という群衆や病人や身体の不自由な人が来てイエスから癒しを与えられました。これまでいつもイエスの周りには多くの人々が来てイエスと接していました。多くの人は「何と力ある方」とか「威厳に満ちた方」とかつぶやいていたことでしょう。一方、そんなイエスの風評がいよいよ世間に広まり伝わり、放って置けなくなったのがファリサイ派らの既存のユダヤ教の護持者たちでした。彼らはある時は「なぜ昔の言い伝えを守らないのか」とか、イエスが癒しや奇跡をすることに「天からのしるしを見せよ」などと言って、イエスに迫りその行動を問題視しようとしたのでした。
そんな身の回りに押し寄せる多くの群衆の風評や敵対者の思惑を前にイエスはご自分に従って来た弟子たちに今こそ彼らの思いを確かめようとしたのでした。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。「人の子」は直訳すると「人間の息子」ですが解りやすく言えば「わたしという人間」とでも言えるでしょう。「わたしという人間を何と言っているか」ということです。弟子たちは風評のままに「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と言ったのでした。荒野に生きヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を施していた洗礼者ヨハネの生まれ変わりではないか、不信仰な王と闘ったエリヤそれとも亡国のユダヤを嘆いたエレミヤといった預言者のような人物ではないかと人々は思っていますと答えたのでした。
しかしここでイエスは思いを高めるようにいよいよ弟子たち自身にそれを問おうとするのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。ここであらためて語句をよく読みますと、気がつくことに「言う」という言葉が繰り返し出てきます。人々は「何者と言う」、「ヨハネだと言い、エリヤだと言い、エレミヤだと言う、預言者だと言う」。しばしばイエスが弟子たちに向かって「はっきり言う(アーメン・レゴー)」と言われる、その「言う」です。それは「語る」とも言えます。強く言えば「表明する」という語感があります。心を決めて言い表わすことです。それをイエスは弟子たちにも言ったのでした。「あなたがたはわたしを何者だと表明するのか」です。それは弟子たちを突きつめるような問いでした。
と、このイエスの問いに間髪おかず返した弟子がいました。シモン・ペトロでした。「あなたはメシア、生ける神の子です」。「イエスよ、あなたは救い主メシアです。わたしに命を与えられる神の子です」と言うのです。「生ける」とは生き生きとしたという意味ではなく、「生かしてくださる」や「命を与えてくださる」ということです。命に満ち溢れ命を与えられる神の子というのです。それは本質的にはわたしを「神にふさわしい者としてくださる」という意味です。だからペトロは「あなたはメシア」と告白するのです。そしてここを見るとペトロは「答えた(アポクリテイス)」と書いてあります。イエスの突きつめる問いかけにそれこそ瞬発的に反応し答えたのです。向かい合う一対一の応答関係が生じたのです。何かを考えてから言ったのではありません。イエスの問いがあった時に反射的に自分から応答したのです。イエスの問いがあった時まるで同時に答えもあったようにすぐに応答したのです。鏡が光を反射するように。イエスが何を求めているかを考えて言ったのではありません。「空気を読む」ような相手に合わせた答えではありません。それは自発的な告白です。何か良い答えをしようとしたのではありません。自分を作らずありのまま表わす告白でした。それはまさに「信仰告白」そのものです。「イエスはわたしのメシアである」というのです。「そう教えられています」や「そうだと思います」ではなく「イエスはわたしのメシア」なのです。
だからそれにイエスも「答え」たのでした。イエスもペトロに向かって告白したのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。別訳します。「ヨハネの子シモンよ、あなたを祝福しよう。あなたがそう言えたのは、人が考えたからではない。天の父が明らかにされたからだ。だから言おう、あなたは陽に照らされる大地の岩。わたしの教会はこの大地の上に築かれる」と。「ペトロ、岩」とはふた心のない存在を意味するのです。岩のように単純でそして無知、不器用であるが武骨で動くことができない、そんな人間。そこに教会が担わされ建てられるのです。神と人間の関係はそんな「我と汝」の告白関係です。もっとも明快で単純な関係です。救おうとする神と救われたい人間がありのままの姿を隠さず装わずに向き合うのです。
それはまた人間どうしでも求められる関係のありかたでしょう。作らず飾らずありのままの心で、心にもないうわべの関係を作ろうとせず、心を開いて向かい合い、受け入れ合うことです。議論しあう関係ではありません。評価し合う関係ではありません。自分のありのままを表わす告白と相手のありのままを受け入れる受容の関係です。
神も隣人もそのような告白を求めて日々わたしたちに出会われているのです。
0コメント