説教 20250119創世記41章1-57節 「苦悩に真実を聴き取る」
抜粋 創世記41章14-36節
そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。ファラオはヨセフに言った。
「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」
ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
ファラオはヨセフに話した。
「夢の中で、わたしがナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、とても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。わたしは、そこで目が覚めた。
それからまた、夢の中でわたしは見たのだが、今度は、とてもよく実の入った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。わたしは魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」
ヨセフはファラオに言った。
「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。」
説教
ヨセフはとうとうエジプト王の前に立つことになりました。それは王の見た夢の意味を解明するためでした。そこに至るまでは、主人で王の家令であるポティファルの家で奴隷としてヨセフは働いていましたが、ある日ポティファルの妻から誘惑を受けます。しかしそれを断ったため妻に陥れられとうとう牢につながれてしまいます。するとそんなある日、同じ牢にエジプト王の給仕長と料理長の二人がしくじりを犯して入ってきました。ところがこの二人同じ日、同じ時に共に夢をみました。給仕長は頭の上に乗せた料理が鳥についばまれてしまう夢ですが、他方の料理長は実ったぶどうを杯に搾って献上すると王がそれを飲み干すという夢でした。ヨセフはたやすくこれを解いて給仕長が処刑されることと、料理長が褒められることを述べます。事態はヨセフの言ったとおりとなりますが料理長はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。しかし2年後新しい事態となります。こんどは王がとんでもない夢を見たというのです。それは見た王自身が身の毛もよだつような恐ろしい夢だったのです。王はやり場のない不安と恐怖をかかえて追い詰められていたのですが、その場にあの料理長がおり、彼は夢解きに長けたヨセフのことを思い出すのです。
こうしてエジプトの王ファラオが見た不可思議な夢を奴隷であったヨセフが解き明かします。でもこれはただの「夢占いの物語」ではありません。たしかにヨセフが夢を良く知り、その意味を解明するのに長けていると言うことはすでに創世記の37章の少年時代のエピソードに書かれていることでした。「夢見る人」と兄たちから皮肉られていたヨセフでしたが彼は夢をたんに占い師のような未来予知的な秘術のようには考えませんでした。ヨセフにとっては夢の「解き明かしは神がなさること・・・どうかわたしに話してみてください」と明かしたように夢は神から人間へのメッセージなのでした。さらに言えばこの人間が負っている個人的な現実のすべてに向けての緊急の予告また助言であり、あるいはその本人の現実に対する警告や示唆と考えたのです。
「夢見る人」ヨセフの登場する37章あたりからすでに創世記はどことなく異国異境的な雰囲気を漂わせて来て、その非イスラエル的でエキゾチックな描写の流れはヨセフがエジプト奴隷へと売られたり牢で王の料理人らの夢を解いたりして、ついに直々にエジプト王の夢を解き明かす場面でクライマックスに到達すると言えるでしょう。当時のエジプト文化の極みの宮廷の煌びやかな光を浴びて王の前に凛々しく立つヨセフでした。しかしこの異国の最中央で彼が真っ先に放った言葉は「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」でした。それはまさにヨセフの偽らざるありのままの心の叫びに他ならなかったのです。彼は言うのです。「わたしは占うのではありません。王のこれからの幸福や不幸を言い当ててご注意を申し上げるのではありません。わたしが申しあげるのは神がいかに王に心を向けておられ、あなたに祝福を与えようとしておられるかを明らかにすることです」と。それは王という個人に寄せる神の関心の大きさと思いの深さをあらわす言葉なのです。
ちなみに古代のエジプトでは王の見た夢が国の先行きを決めるという慣行だったといいます。いわば王つまり支配者は神のお告げを夢によって受ける神官のようなものでした。ですからこの夢を見てたいへんに不安を覚えたエジプト王は国中の「魔術師と賢者」をおかかえの「夢解き官」として置いておいたのです。
ただ、この時にエジプト王が見た夢は平時いつも見るような類の夢をはるかに越えたあまりにも不可思議でしかもなんとも言いようのない不気味で恐ろしいものだったのです。王は二つの夢を見たのですが、どちらも前半が美しく豊かな風景で始まるのに後半は背筋が凍りつくような奇怪かつ醜悪な光景で目が覚めるのです。「つややかな、よく肥えた七頭の雌牛」が「醜い、やせ細った七頭の雌牛」に食いつくされ、「よく実った七つの穂」が「実が入っていない、東風で干からびた七つの穂」に飲み込まれてしまう。それはいつもの夢解き官がどうあがいても解き明かすことができないほど難解な夢だったというのです。
この不可解で奇怪な夢は後にヨセフが意味を解明するのですが、一面でこのエジプト王自身の抜き差しならず切羽詰まった人生の袋小路に追い込まれていた状況をあらわしているのではないでしょうか。ヨセフの神の計画を見抜く実際的な解釈に遠く及ばずエジプト王は耐え難い苦悩のジレンマに陥っていたと考えられます。美しさに醜さが取って代わり、豊かさがやせ細ってしまう恐怖、そして美しい豊かさが跡形もなく消え、まるで自分が何もなかったかのように忘れ去られてしまう孤独と恐怖。それに向き合えないで何もなく終わってしまう虚無感の中にエジプト王はあったのです。しかし、そこにこそ神が王に最接近して語り伝えようとする言葉が隠されていたのです。
この出来事に込められた意味は夢占いが何でも解決するというものなどではもちろんなく、さらに言えば、ただ「夢が神の計画を教えているので神に聞くべし」というものでもありません。
神はあなたが苦しみ行き詰まっているとき、その苦しみを知ってあなたと共にあろうとしているのです。苦しみとはそこに確実に神が共におられることのしるしなのです。
ヨセフの言葉によって王の夢は一変します。得体の知れない不気味で恐ろしい幻想から明確ではっきりと時間と空間のなかに起きる事態として対処可能になります。これにより王は自分を悩ませた夢と苦しみを神の言葉またメッセージとして受けとめることができたのでした。
この後、王は自分に対する神のメッセージ、言葉を明らかにしたヨセフを自分と同じ立場へと引き上げます。ヨセフを自分と同等と見なすようになります。これは王がヨセフと一体化したい気持ちをあらわしたものでしょう。だからヨセフは「出世」したのではなく、エジプト王の友となるのです。他の言い方をすればこの現実世界の支配者である王の分身のようになり、王とこの世を救ったのです。
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