説教 20250105「 絶望のなかに希望は注ぎ溢れる 」

マタイによる福音書15章32~16章4より

 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」エスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの篭いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

説教

 イエスを敵視する人々がやって来ました。彼らはこう問いただすのです。「天からのしるしを見せよ」と。天とは彼らの考える「神」のことでしょう。しかしそれは神というより「上にあるもの」とも言うべきで、いわば上層部、おかみ、権威者など「目下の者に命令し行動を許可する者」というような意味がこもっています。イエスはそれを見抜いて彼らを皮肉って言います。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」と。ここも、この「空模様を見分ける」とは「天候」のことではなく、ファリサイ派らがまさに空模様のごとく「天」つまり上に立つ威厳ある大祭司や律法学者あるいはローマの総督らの顔をうかがって立ち回っている醜い有り様をあてこすっている言葉と言えます。「しるし」は絶対的権威からの証明である「証文」とか「お墨付き」と言い換えることができます。「お前はお上のお墨付きを持っているか、見せよ」と言うわけです。

 イエスは答えられました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。あなたがた神に背を向けた人間たちはもはや神のことを知らないからただ「しるし」という地上的威厳に頼ることしかしない。しかしこの「しるし」こそあなたがたを神をから限りなく遠ざけているのだ。イエスは言われる。「しるし」を求めるあなたがたに下されるもっともふさわしいしるしは「ヨナのしるし」以外にはないと。

 ここに五千人の食事や四千人の食事の出来事によってイエスが示そうとされたもっとも大切な言葉が語られます。「ヨナのしるし」とはイエス自身の「死と復活」にほかなりません。旧約聖書のヨナ書に登場するヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩、死の闇の中に置かれその後に吐き出され、生き返ったという出来事。その喩えの本質こそイエスの死そして復活です。それは威厳ある「しるし」とかお墨付きというには到底、役割をなしえません。救済者が死ぬなんて。死者が復活するなんて。それが「救いのしるし」になるでしょうか。でも「ヨナのしるし」、イエスの死と復活こそが神の救いの揺るがない「しるし」です。そしてそれは信じる人に圧倒的に迫り、溢れるほどの「しるし」です。「イエスの死と復活」はまさに「(耳で)聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(ヨハネの手紙1章1節)としてにわたしたちに現れ、心を豊かに満たすからです。

 ほんとうのしるし、「ヨナのしるし」とは「イエスの死と復活」のことです。それはまたわたしたちの死と復活であり絶望を超える希望のことなのです。五千人の食事と四千人の食事は「イエスの死と復活」のメッセージです。イエスはファリサイ派やサドカイ派の「パン種」に注意するよう弟子たちに警告しますが、実際のパンと勘違いした弟子たちにそれがファリサイ派らの「教え」であることしかも「しるしの教え」であることを悟らせます。そしてここであの二つの食事についてイエスは驚くべき核心を言うのです。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか」と。群衆が「深く憐れ」まれ、「かわいそう」で「空腹」で「疲れ切ってしまう」様子から「食べて満腹」とか「篭いっぱい」という状況へと劇的に一変したことが描かれます。「篭」もそれぞれの記事をたどれば五千人の時は「十二の篭にいっぱい」、四千人のときは「七つの篭にいっぱい」になったと。何がいっぱいになったでしょう。「篭」は希望を表わす象徴です。希望が「いっぱい」になったのです。

 「いっぱい」は「溢れた」という言葉です。この「溢れた」はパウロが神の恵みの感動を表わすときに書く「満ち溢れ(プレーローマ)」と同じ語根です。彼はこう言っています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマの信徒への手紙15章13節)。希望の篭に集められた「いっぱい」なものこそイエスの恵みの言葉であり愛の言葉でした。希望が愛に満たされます。

 これは聖餐の隠喩と言われます。そう言ってかまわないでしょう。では聖餐とはなんでしょう。それは「人里離れた所」での出来事。そこに食事がなされます。五千人の食事はユダヤ人のキリスト者に向けて、四千人の食事は異邦人キリスト者に向けてのメッセージだと言われます。でも共に社会の中心にはいません。そんな人間たちをイエスは深く憐れみます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」むしろイエスが空腹で疲れきっているかのよう。それは見下すような気遣いではなく、むしろ「飼い主のない羊」のように孤独感や虚無感に心を塞がれた彼らの悲しさの惨めさに太刀打ちできずただ傷つくしかない眼差しでした。そこに聖餐がなされたのです。聖餐とはイエスがわたしたちの死と生と「共にあるしるし」、「ヨナのしるし」です。人里離れた所、病床、貧困、孤独、差別、戦場にいる人々と共に「倒れもし立ちもする」イエスのみわざです。イエスは聖餐の中でわたしたちの悲しみに死にます。そのとき「神の恵みが溢れ希望の篭にいっぱいになる」復活が生まれるのです。

 奇跡の物語ではありません。これはわたしたちの絶望のただ中でみずから死に命を与えられたイエスの希望のメッセージです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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