説教 20241229「 光は死ぬそして暗きを照らす 」

ヨハネによる福音書12章20-36

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

説教

 この物語の発端は数人のギリシア人ユダヤ教徒が「イエスにお目にかかりたい」とやって来たことに始まります。民衆にたいして数々の癒しや奇跡、教えを行っていた「名高い」イエスを見たり拝そうとしてやってきたのでしょう。ギリシア人ですからヘレニズム的な万物の尺度のようなものとか普遍の価値ある「ありがたいもの」を見ようとして来たのかもしれません。ところがイエスは彼らの思いもよらない言葉やさらに期待を裏切るような教えをもって彼らに臨んだのでした。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 ここでイエスの言われたこととはこうです。「光は死ぬのだ。光は死んでこそ、あなたがたを救うのだ。あなたがたは光は死なないと思っている。いや光は死ぬ。光は潰えてこそ輝き、奪われてこそ与えるのだ。」人は光をいつまでも光りつづける永遠なるものと考える。いつまでも輝きすべてを上から照らすもの、権威あるもの、満ち満ちた力を持ちつづけるものと考え仰ぐ。しかしほんとうの光は死ぬ。まことの光は自分の命を投げ出し、与えそして消える。そしてそのとき光は真実の意義を人々に与え、人々を輝かせる。

 このイエスの言葉の内容をわたしたち人間の立場で逆に言い換えるとこう言えるでしょう。「みずからの挫折の中に信仰を持つ者は、そこにほんとうの勝利を見い出す。」これはキルケゴールというキリスト教思想家が言った言葉ですが、このキルケゴールはまた「人生とは何かという問題は答えを出されるべきものではない。人生とはただ体験し経験されるだけでいい」とも言っています。この体験や経験こそがイエスの言おうとされた「死」なのです。

 最近「AI」というコンピューター技術が声高に言われたりもち上げられたりしています。AIに訊ねれば何でも答えてくれるし教えてくれる。お金の儲け方や快適な生活法、病気の治し方や最適の配偶者選び。なんでも正しい答えを出してくれます。それで少し前に私は母校に行って講演をしました。高校生たちは正解を出すのに躍起です。受験生たちは出された問題に正しく解答することで実力がつくと思ってます。

 私は彼らにイエスの言葉を伝えました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。イエスの「死ぬ」とは「問う」ことなんだと。イエスは人生の答えを与えようとしてこの世に来たのではない。イエスは人生をそして現実を問うことを教えるために来られたのだと。AIやコンピューターは何にでも答えるかもしれない。正解を出すだろう。なんでも解決するだろう。でもそれらは問うことはしない、できない。何でも解決しようとし完璧に片づける。でもそれは生きることではないのだ。生きるということは現実に突き当たり悩み苦しんで問いつづけることだ。現実の人生に答えが出ないまま問うことが生きることじゃないか。

 イエスは「死ななければ」と言われた。それは「問う」ことです。誰でも死ぬとき、死を考えるとき「なぜ」とか「どうして」とか思うのではないでしょうか。人間は根本的に死を拒絶し逆らいます。「どうして自分は死なねばならないか。」「どうして死があるのか。」これが問いです。イエスも十字架の上で父に問われました「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。じつはイエスの生涯も問いつづける生涯そのものではなかったかと思います。イエスはその元にすがりつく多くの人々の病気や障害や罪に、そして偏見に差別に抑圧に憤り嘆き問いつづけたのです。そしてイエスはこれらの罪や病気や障害にもっとも必要なのは何でも綺麗に解決してしまう正しい答えや正解ではないことを知っていました。イエスは彼らに人生の答えや正解のような「教え」や「知恵」や「教典」などは与えませんでした。「金やモノ」でする解決策のようなものを与えたのではなかったのです。イエスは人々と共に生きる現実に向かってただ問われました。その罪や病気、障害さらにあらゆる苦しみや悩みの問いに与えられた唯一の選びこそ十字架の死だったのです。もっとも必要な道をイエスは歩んだのです。光は死ぬのです。実らせるため一粒の麦が地に落ちたのです。この死は「愛」を実らせます。この死こそ「謙遜」となります。それは病気や障害、罪や偏見に差別に苦しむ隣人への愛であり、仕える謙遜です。

 イエスは「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」とわたしたちに呼びかけます。死すべき光につづき光の子となれと言うのです。光はすべてのものに降り注ぐときすべてのものそれぞれの輝きや色彩へとみずからを変えます。光の死のうちにこそ人は生きることができ、救いが見いだされる。みずからを死し、隣人に仕える謙遜こそが生きることなのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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