説教 「 いのちを救うできごと ー 飼い葉桶のメシア」

ルカによる福音書2章4~16節

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

説教

 クリスマス。凍てつく満天の夜空に輝く星。天使たちの歌声。見上げる羊飼いたち。薄暗がりの中牛や馬に囲まれて眠る乳飲み子。見守るマリヤ、ヨセフ。駆けつけ仰ぐ羊飼いたちと博士。クリスマスはあたかも幻想的な絵物語のように描かれます。しかし、このルカによる福音書のキリスト降誕の物語になにかある暗示のような特徴があることに気がつきませんか。じつは驚くような対比がこの物語の始まりと終わりに見られます。固有名詞に注目しましょう。物語は「皇帝アウグスト」(1節)に始まり「イエス」(21節)に終わるのです。降誕物語は世俗の最高権力者アウグストから始まるも生まれたばかりの無力な嬰児イエスへと行き着くのです。場所を想像するなら壮大かつ絢爛たるローマの宮殿にたいして灯火もおぼつかない薄暗がりの家畜屋のさらに小さき飼い葉桶が描写されるのです。

 その時の社会情勢とも対比されます。皇帝が発した住民登録の命令は人々の活動を促し、今日でいう経済効果も生み出し人々は長旅をして旅館などは満員の盛況になり、街には活気が溢れていました。他方、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」と言うのです。物語の眼は光の陰の暗闇の中へと向けられます。まるで群衆の騒ぎの真っ只中なのに心の依りどころ無く独り沈んで部屋に向かう時のように。この日この世の人々が先を争ってしようとしていたことを考えると、じつは降誕物語がとても驚嘆すべき異様なことを語っていると気付かされます。

 この世の人々は一心不乱に「住民登録」に向かっていました。我先に自分がどこの何者であるかを登録しようとしていました。すなわち自分の「身分証明」つまり自分がどんな人物であるのかというこの世での「アイデンティティー(ID)」を得ようと誰もが躍起になっていたのです。じっさいにもローマ皇帝アウグストゥスはこの調査で帝国内各地の農業人口数と生産高を調べようとしていたといいます。社会の中で自分がどれほどの役割を負っているか自分にどんなことが出来るのかわたしたちは憑かれたように知りたいと思うものです。ただ降誕物語ではこの世の人々の身分証明「アイデンティティー」追及の活動はただ人々が宿に溢れていたと言う以上には何も語ろうとしません。

 しかしそれよりも降誕物語は真の王である救世主メシアの「メシアたる身分証明」をこの世の皇帝アウグストに対抗させようとするのです。ルカによる福音書は当時のギリシア・ローマ文化の人々に向けて書かれたといいます。あえて皇帝アウグストの名を出し、これに真の王である救世主メシアを立ち向かわせる筆致にはローマ文化に対するルカの決然とした対抗姿勢が現れていると言えないでしょうか。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。そうです宮殿でもなく王宮でもない。この世には降誕のメシアの居場所はないのです。救世主の中心舞台は家畜小屋でした。さらにその救いの王の身分証明(アイデンティティー)を確認するのは貴族や軍人ではなくむしろ荒れ野に生きる羊飼いというまさにこの世の片隅に生きる人たちだったのです。

 天使らは高らかに言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。「しるし」とはまさに「身分証明」のことです。それは救い主が救い主である身分証明の宣言でした。でもこの「しるし」まさに救う者としての「身分証明」、救世主メシアのアイデンティティー、神の子としての証明は、ただ「飼い葉桶」の中にあるというのです。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。それは飼い葉桶のメシアへの賛美です。そして羊飼いたちはすぐに動きはじめました。彼らこそこのメシアの身分証明の真の認定者となるのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。そしてついに「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。

 羊飼いたちは「見た」と言います。確認したのです。いったい何を見て確認したのでしょうか。それは「飼い葉桶」だったのです。彼らの眼に飛び込んだものは眠る乳飲み子というよりもむしろその飼い葉桶だったのではないでしょうか。安らかに眠る乳飲み子の寝顔によりも飼い葉桶というその異様な光景にじつは深く心を釘付けされたのではないでしょうか。輝く王子や英雄の息づきどころでなく寝かせ場所も無く薄汚い飼い葉桶に寝かされた惨めな乳飲み子の姿だったのです。まさにそれをこそ神の子の「しるし」と知り、不思議にも心からメシアの「身分証明」と理解し、救い主の確証、確信を得たのです。

 「飼い葉桶」。あの天使たちが歌った栄光は今やどこにあるでしょう。飼い葉桶に沸き立つ喜びも晴れ晴れしさもありません。それは「まさかそんなところに神の子が」とこそ言うべきものです。むしろ汚らわしいとさえ言うかも。「飼い葉おけ」は家畜の食べ物入れとしてだけではなくゴミ箱あるいは排泄物入れのようにも使われていました。言ってみればむしろ「不要物や廃棄物という死のしるし」です。「棺(ひつぎ)」のようにも解されましょう。世の人であればそんな汚らしい飼い葉桶に乳飲み子は寝かせるでしょうか。

 いえいえ、だから、だから羊飼いたちは乳飲み子を「救い主」と知ったのです。いいでしょうか。羊飼いたちはじつに王子らしい壮麗な乳飲み子を見たからメシア、救い主と確認したのではないのです。異様にみすぼらしく不潔に汚れた飼い葉桶の痛ましいほどの乳飲み子を見たからこそ心にメシアをはっきりと確かめることができたのです。汚れた飼い葉桶は彼らの心の奥にある苦悩や悲しみを貫いたのです。だから「その光景(飼い葉桶)を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」また「見聞きしたこと(飼い葉桶)がすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。メシアの貧しく悲惨な「飼い葉桶」こそが人々の心の扉を叩いたのです。

 そしてこのメシアの寝かされた飼い葉桶をようく見つめると、それは十字架につけられたイエス・キリストを思い起こさせるのです。

 わたしたちの心の奥底にも自分の罪のようなものが溜まる「飼い葉桶」があります。棄てられた苦しみ。立ち上がれない無力さ。愛することのできない絶望。しかしキリストはわたしたちの絶望や罪を、みずからが飼い葉桶に眠ることによってみずからが十字架に架かることによって仕える謙遜と愛に変えられたのです。心や行いを低くする生き方が飼い葉桶から始まります。クリスマスは神が飼い葉桶の中で身を低めてくださった大きなみ業(わざ)出来事なのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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