説教 20241201「狼は子羊と共に宿り」

イザヤ書9章1~6節

 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。 刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。

彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を

あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。

地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく

火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。

その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。

王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

イザヤ書11章1~6節

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。

狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。

 説教

 クリスマスは神の子イエス・キリストが世の人々を救うためこの世に誕生された出来事です。救い主メシアの降誕です。でもへんな言い方ですね。神の子って誕生するものでしょうか。神だったらずっと前からいえ永遠の昔からもう神で存在していたのではないでしょうか。それも人間の女性の胎から生まれたならただの人間の赤ちゃんじゃないでしょうか。まったくそのとおりなんです。クリスマスに生まれたのはほんとうにごく普通の赤ちゃんです。でもじつは聖書はどうもそのへんなことつまり救い主がただの赤ん坊で生まれるということを重々承知しているようなのです。

 クリスマスつまり神の子の誕生には古くから預言というものがあります。それがこのイザヤという人の預言の言葉なのですが、そこを見ると「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と言うではありませんか。その子が「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と呼ばれ正義と恵みと平和の「大いなる光」の指導者となるとも。もっと印象深いのは11章の預言です。こう言います、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」と。こう言うのは弱い人間の味方をしてくださる神の姿で輝かしいのですが、その様子がどうなのかと見ますとこれが随分と不思議で想像しがたいような光景です。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」と。

 狼が子羊といっしょにいたら子羊を食べちゃいますね。豹だって子山羊は獲物にしますね。若獅子は血気盛んなライオンですから牛なんか襲って食べちゃいます。狼、豹、ライオン、さらに熊。そこに子羊、子山羊、牛、おまけに赤ちゃんが毒蛇の穴に手を入れるんですか。噛まれたら死んじゃいますよね。どう見ても弱肉強食の関係、襲う襲われる、食べる食べられるの間柄じゃないでしょうか。ところがここではこの狼も豹もライオンも熊も赤ん坊や子どもといっしょに遊び戯れ、おい育つというのです。そして彼らを導くのが子どものメシアだと。

 これを荒唐無稽のありえない現実離れした夢のような絵物語だと言って笑い飛ばすこともできるでしょう。ところが聖書は本気でそしておお真面目でこの光景を預言しているのです。と、聖書ばかりかと思いましたら、一つ思い出しました。かつて幼稚園の子どもたちに読んで聞かせたある絵本のことでした。

 それがこれ、エウゲニー・ラチョフという人が描いた『てぶくろ』という絵本です。短い話ですので、あらすじを言います。雪の降るある日、おじいさんが森を通ったとき、片方の「てぶくろ」を落としてしまいました。するとそこにネズミが来て「これはいい」とばかりてぶくろに入りました。しばらくするとこんどはカエルが来て「入れて」と言ったので入れてやりました。またしばらくすると誰かがやって来て言います。「入れて」。ウサギでした。入れてやるとそのあとまた誰かが来ました。キツネでした。キツネも入れてあげてしばらくすると、今度やって来たのはオオカミでした。「どうぞ」と入れてあげると「てぶくろ」はグッとふくらみました。これでゆっくりしているとまたまた誰かが来ました。イノシシです。「入れて」、「はいどうぞ」。ウーン、ちょっと苦しいぞ。そして最後に木の枝をバキバキ折りながらやって来たのはなんとクマでした。「わしも入れてくれ」、「まんいんでーす」、「いや、どうしても入る」、「それじゃ、はしっこにどうぞ」。とうとうクマも入って「てぶくろ」は超満員です。ほんとうに入れちゃったって。こうして皆温まっていました。やがて時間がたった頃、また誰かがやって来ました。また誰かが入るのかなと思っていると、それはおじいさんでした。おじいさんがてぶくろを探しに来たのです。するとおじいさんの連れた犬が手袋を見つけワンワンと鳴きました。てぶくろのみんなはビックリしていっせいに飛び出して逃げていきました。おわり。

 わたしは最初この絵本がなんのことやらサッパリ分かりませんでした。せいぜいその時は園児たちに読み聞かせるのだから、遊んでる時友だちが来てもいっしょに入れてあげる「入れて」「いいよ」のやりとりの教育かなぐらいにしか思っておりませんでした。でも最近、近年の世界情勢を知り、何か深い意味がありそうだと思い当たりました。作者エウゲニー・ラチョフさんはウクライナの人です。この物語は創作ではなくウクライナに伝わる民話だということです。それはウクライナという小さな国のことなのかもしれません。小さな手袋に一緒に入って共存する大小七匹の動物たちというか襲う猛獣と襲われるかもしれない小動物。それはウクライナなど東欧にあるスラブ諸国の在りようを描いて平和を願った話かもしれません。よく世界の国々は動物に喩えられることもあり、とくにロシアは「クマ」に描かれます。「てぶくろ」が出たのは1965年で、56年にソ連はハンガリーに侵攻し68年にはチェコスロバキアに侵攻しています。

 この「てぶくろ」の話が強国に取り囲まれた弱小国ウクライナのことを描いたとするなら、聖書のこのイザヤの預言もけっして絵空事ではなく、ユダヤと周辺諸国との関係を表したものとも言えるでしょう。なるほどこの預言者のイザヤがいたころのユダヤ近隣には大国アッシリアやエジプトがじわりと勢力を伸ばしていたのです。でも預言者イザヤはたんに当時の世界情勢だけを見てこうした大小の動物の平和共存の姿を描いたのでしょうか。そうではないでしょう。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

 この素晴らしい不思議な光景は何を表すでしょう。それは「教会」の姿です。そして遠く離れた神と人間が語りあい、まったく違う人間と人間が出会い愛し支え喜びあう場を訴えているのではないでしょうか。ラチョフさんも強い動物と弱い動物はたといどんな小さな「てぶくろ」であろうとそれはどんどん膨らんで誰でもが誰とでも共存しあえると言うのではないでしょうか。クリスマスにはたったイエス・キリストという一人の小さな赤子が人々の心に思い描かれます。でも神からの贈り物のこの小さな命には誰でも繋がることができるのです。この小さなメシアのもとには誰でもが来ることができます。この小さな救い主神の子はその「てぶくろ」のように誰でもが入れます。どこにも行けない人も入れます。誰にも見棄てられた人も入れます。何にも頼れない人も入れます。何もできない人も入れます。イエスキリストという救いの「てぶくろ」「教会」はどんどんふくらみます。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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