説教 20241020創世記40章1-11節 「 今の自分がすべての人生 」
― 神はわたしを解き明かす ―
これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎたが、監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。
「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。」
「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。
「わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。」(創世記40章1-11節)
先日インターネットを利用していましたらエッというようなコーマーシャルビデオが流れまして非常に驚かされました。それは副収入アルバイト募集の広告で、若いアナウンス女性が言うには「チャネラー(交霊術師)をやってみませんか。簡単にお金が入りますよ」というのでした。研修を受ければ誰にでもできて相談者とその守護霊との連絡と交流を取り持てて、相談者の運命を助けることができます、というのです。完璧に詐欺広告ですがそれも交霊術師アルバイトとはたまげてしまいます。最近は空前のスピリチャルブームということで街には星占い夢占いのキラキラ飾った店舗が構え、寺社仏閣えではこれまでになく大掛かりにおみくじが当たり前に売られています。それはそれにとびつく客がいるからですが、そればかりでなく政治家や統治者が占いみたいなもので物事を決めていたらどうでしょう。実際ニュースでも韓国のかつての女性大統領は友人の占い師の言うままに政局を決めていたと言いますし、レーガン元大統領も決断時には占いに頼っていたといいます。たどれば政治はたしかに「政(祀)りごと」で卑弥呼にしてもナポレオンにしても政治の決断に彼岸のカミを祀り頼ってしか出来なかったのです。
わたしたちはどうしても現在の自分や将来の自分の真実について知りたい確かめたいと思うようです。そのためにどうしても占いに頼ってしまうのでしょう。その頼る理由は「意味付け」を得たいからです。自分の今の不遇やこれからの不幸の運命が「なんでそうなるの?」とか「どうなってしまうの?」と悩むとき「それならわかる!」と上からのお告げに納得したいからです。たとえそれがまったく根拠がないどころか詐欺的な意味付けであっても。
この物語は「夢を解くヨセフ」と見出しが付けられています。若年の頃から夢を見ては楽しんだり、兄たちに得意げに話したりするヨセフでしたが、それがためついにこのエジプトに流れ着き果ては牢獄にまで入れられる結果になっていました。ここでヨセフは二人の人物つまり王の給仕長と料理長と出会い、二人の見た夢を解釈することになります。
仕える主人ポティファルの妻の嘘で牢に入ることになったヨセフとは違ってその二人は仕える王に間違いを犯してこの牢に入る羽目になっていました。二人はこの深刻な状況の中でそれぞれ夢を見たのでした。その夢のせいで二人は非常に「ふさぎこんで」いたといいます。その二人の様子をヨセフは不審に思ってか「どうしてそんなに憂うつな顔をしているのか」と尋ねます。すると二人とも「夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と答えます。給仕長も料理長も互いの夢を話し合ったでしょう。
給仕長の夢はこうでした。一本のぶどうの木から三本のつるが延び花が咲きそこにふさふさとぶどうが実った。給仕長はそれを杯にしぼって王にささげた、というものでした。一方、料理長の夢は編んだ籠が頭の上に三つあってそこに王のための料理がいろいろ入れてあったが鳥が来て食べてしまったというものでした。聞いたヨセフは即座にそれを解いて彼らに説明しますが、それは対照的なもので給仕長は生かされるのに料理長のほうは木にかけられて死ぬというものでした。
この夢解釈を心理学的とか精神分析的にとか解釈して説明することもできるでしょう。でも聖書の創世記はそう描かないのです。もっとも注目しなければならないところは夢が運命を示すということではないのです。じつは重要で聖書が刻明に描くのは二人が「意味」を解けなくて「ふさぎこんでいたという」場面です。自分の中に湧きあがった夢が何のことやら解らない二人でした。それでふさぎこむ。じつはこれが現代のわたしたちも陥る悩みや閉塞感、不自由感に繋がる同じものと言えるのではないでしょうか。言ってみれば自分に対して「意味」が持てないことです。「自分が解らない」とか「自分のことが決められない」というような気持ち、そしてそれは「罪に繋がれた」ような「咎を引きずるような」苦しい思いにちがいありません。これがもっともこの出来事の大切な部分です。
そして、給仕役も料理役もそれぞれ彼らの見た夢をヨセフに向かって順に話していきますが、ヨセフは最初に二人に決定的とも言うべきひとつの告知つまりメッセージを伝えます。それが「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」という言葉でした。それは生の「意味付け」は神のすること、自分の見る夢の理解は自分ではできない、人間にはできない、神に聞くしかできないということです。つまり人間は傲慢に自分を意味付ける者、自分を解釈する存在にはなれない、なってはならないということです。
この後二人がそれぞれの夢をヨセフに話しておくと、後日ヨセフの解釈のとおりのことが二人に起こり、給仕役は地位を回復されるが料理役は命を断たれてしまいます。注目するのは二人がふさぎ込んでいる憂鬱な場面の描写よりこの結末の生きたの死んだのという描写のほうがじつに簡単であっさりとしていることです。つまり生死がどうなるかはこの聖書の物語では二の次なのです。なによりも神自身がなされる解き明かしと意味付けに比べて。生きるも死ぬもそれは必然。長らうか逝くかはじつは人生の中心にはない。大切なのは「神の解き明かし」に聞きそれを知りそれに委ねて、それゆえに同じ日々を生きることだというのです。
もうひとつ目を引くところですが、この給仕長と料理長二人はそれぞれの夢を「同じ夜に」同時に見たと書いてあります。考えてみるとまさにこの二人はひとりの人間であって、その罪の側面と義の側面、闇の面と光の面、生と死の両面は神に聞くことによって受けとめられることを描いていると言えます。つまり人間生きるにも死ぬにも神の意味付けを大胆に担うことなくては生きることはできないのです。
「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」。この「解き明かし」とは「説明」のことではありません。神の「解き明かし」とは神が私たちの人生に伴ってくださることにほかなりません。「解き明かし」とはわたしたちに与えられる「救い」のことなのです。
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