説教 聖霊降臨節 第18主日礼拝 愛知東地区「地区の日」相互応援伝道 「心を寄せる神」

「エルサレム神殿」とは

今日お読みした旧約書、新約書、共に「エルサレム神殿」が舞台となっています。エルサレム神殿は、古代エルサレムに存在したユダヤ教の礼拝の中心地で、唯一の神様の聖所でありました。礼拝を捧げ、焼き尽くす捧げものを奉献する為に多くのユダヤ教徒、イスラエルの民が訪れました。神殿には至聖所と言われる神様が住まわれていると信じられた場所がありました。そこには、アロンの家系の祭司と、レビ人と呼ばれるレビ族出身の者以外は入ることが許されていませんでした。ですから、神様の御前での祭儀は、限られた者だけが担当していたのです。エルサレム神殿と聞くと、変わらない一つの建物のように思うかもしれませんが、実際は、大きく分けて3つの捉え方が出来ます。まず、紀元前10世紀頃、ソロモン王が最初に建設した神殿を「ソロモン神殿」と言います。その後、統一王国が分裂し、エルサレム神殿のあった南ユダ王国の国力が衰退すると共に、神殿も衰退し、バビロン捕囚時には、多くの民が、バビロニアに移住することになり、神殿はバビロニアによって破壊されました。それから、60年近くが経ち、バビロン捕囚から解放され、紀元前515年に、ダビデや、ソロモンの血筋であるユダヤ人指導者のゼルバベルや、預言者ゼカリヤなどが尽力し、ソロモン神殿と、ほぼ同じ場所に神殿を再建しました。これを「第2神殿」と言います。「第2神殿」は、捕囚から解放して下さった神様をユダヤの民が礼拝する場所となったのですが、ソロモン神殿のような規模ではなく、小さな造りとなり、荘厳さにも欠けていました。しかし、紀元前20年に、イエス様の誕生物語にも登場する「ヘロデ大王」が、自分の持っている力を、国内外に知らしめる為に、「第2神殿」を完全改築に近い形で大拡張しました。その神殿は「ヘロデ神殿」と言われるようになりました。最初のソロモン神殿をも凌駕する作りとなり、ヘロデの王宮と神殿が一体のものとして作られました。その豪華絢爛さは、当時の世界でも評判となり、ユダヤ教の礼拝目的だけではなく、観光目的の人々まで、神殿に足を運んだそうです。オリエント文化が取り入れられ、見た目にも優れた神殿となったのですが、本来のユダヤ教の礼拝所として考えれば、文化や思想が入り乱れたものとなり、ユダヤの人々にとっては、自分たちが支配されていることを改めて思わされる場所となってしまい、不満が残る神殿になってしまったのです。ヘロデ大王の死後、彼の息子たちの代を経て、孫であるアグリッパ1世が、ユダヤの統治をローマから任されていたのですが、その彼が亡くなると、ユダヤは、ローマの直轄地となりました。直轄地になったことで、ユダヤ人たちのローマに対する不満が爆発し、独立を求めて「ユダヤ戦争」が起きました。当然、ローマに勝てる訳もなく、紀元70年のエルサレムでの最後の攻防戦を迎え、エルサレム神殿はローマ帝国によって破壊され、現在に至るのです。

神殿が示すこと

今日お読みした、歴代誌下に書かれているように、ソロモンが、最初に神殿を作ったのですが、それは、ソロモンの思いだけで作ったのではありませんでした。父ダビデの強い思いがあったのです。神様が、出エジプトの旅路を導き、イスラエルの民を約束の地に入らせ、その生活を守りました。そして、今まで誰もなしえなかった、イスラエル十二部族の統一王国を作り上げることが出来たのは、主なる神様のおかげだと、ダビデは思い、その神様への感謝と喜びの思いを、神殿を建設することで、神様に示したいと考えたのです。しかし、そのダビデの願いを神様は受け入れませんでした。ダビデは、統一王国をつくる為とはいえ、多くの血を流してきたからです。(歴代誌上17:4-6、22:7-10)その願いは、息子の代、ソロモンで叶うことになるのです。それを受け、神様は、ソロモンに現れ「わたしはあなたの祈りを聞き届け、この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした」と語られました。親子2代の思いを込めて建設した神殿が、神様に受け入れられたことを、ソロモンは喜んだことでしょう。その上、神殿で捧げられる「祈り」に、神様は目を向け、耳を傾けて下さると、15節で神様は語られるのです。そして、16節にあるように、神様は神殿を「聖別され」、「エルサレム神殿」に「神様の名がいつまでも留まる」ようにして下さったのです。言い換えれば、「神様の栄光が現れる」…「神様の働きが示される」ようにして下さったのです。具体的に、どうやって働きが示されるのかというと、捧げられた私たちの祈りに、神様が「目を向け、心を寄せ」て「応えて」下さり、神様の業が私たちに示され、栄光が現れるのです。しかし、実際のところ、どうでしょう。私たちは、エルサレム神殿では、礼拝を捧げていませんが、日常生活の中で、教会に通い、普段から祈っています。教会で祈る他に、日常の中でも、数多く願い、祈っています。その私たちの祈りが、聞き入れられ、望んだとおりになることもありますが、なかなか思うようにならないことの方が多いように思います。そうすると、神様は私に目を向けて下さっていない。心を寄せて下さっていないように思えてしまうのです。やはり、エルサレム神殿に行って祈らなければ、祈りに耳は傾けてもらえないのでしょうか。

心を寄せる神

そうではありません。大切なのは、エルサレム神殿という場所ではないのです。コリントの信徒への手紙一の3章16節で、パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と語っています。この「あなたがた」というのは、特定の個人を指しているのではなく、各地に存在する教会(建物というより組織としての教会)のことを指しているのです。神様の霊は、私たち個人の他、教会、伝道所と、いつも共にあり、「心を寄せて」下さっているのです。私たちは神様の働きかけを日常の中で受けつつ、日々の歩みを重ねるのです。その中で神様の霊が、私たちと共に住んでおられることを実感するのです。神殿ができる前は、天幕という移動聖所で、人々は礼拝を守っていました。エジプトを出て、約束の地に至るまでの旅路の途中、神様が共にいてくださることを、様々な場所での、様々な出来事を通して、神様の働きかけや、愛を感じて、人々は自分たちのいる場所で、神様に感謝し、礼拝を捧げていました。「自分たちの内に神様が住み、私たちを導いてくださっていることを感謝し、神様に応答して、神様の栄光を表す」のが、私たちの礼拝なのです。遠くにある神殿で礼拝すること以上に、それぞれの生活の場から導かれ、繋がっている教会で礼拝することが大切なのです。私たちが集うそれぞれの教会が「神の神殿」なのです。この田原吉胡伝道所の礼拝、刈谷教会の礼拝が、私たちの「神殿」での礼拝なのです。もちろん、エルサレム神殿も、当時のイスラエルの人々が、日常に働かれている神様を覚え、神様との繋がりを感謝し、礼拝する場所であったことに間違いはありません。しかし、人々が、神様ではなく、人の力や、列強の国々を依り頼むようになり、神様への思いが薄れ、神殿は、人間の権威や、力の象徴となってしまったのです。豪華絢爛さが、神様の偉大さを示しているのではありません。また、祭司や、レビ族と言った限られた人だけに神様が働き、彼らだけが礼拝するのではありません。神様は全ての人に働いて下さるのですから、全ての人が神様を礼拝するのです。神様が私たち全ての人間に働いてくださった事を、モーセから始まり、ダビデ、ソロモンと続き、ゼルバベル、そしてイエス様の歩みを通して証ししているのです。今の私たちにも「心を寄せる神様」が今、生きて、私たちがいる場所で働いて下さっているのです。そのことに目を向けたいと思います。イエス様は、エルサレム神殿の回廊で、ユダヤの人々から「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と責め寄られます。この時の彼らが望むメシアは、政治的、軍事的に力ある救い主でした。彼らが望む働きをしない者を、彼らはメシアとは感じないから、このような質問をイエス様に向けたのです。すでに、イエス様は、私たちに目を留め、心を寄せて下さるから、私たちが抱える全てを知っておられ、私たちにとって本当に必要な恵みや、働きを与えて下さるのです。イエス様と同じように「心を寄せる神様」だからこそ、主であるイエス様を私たちに与えて下さったのです。主の十字架の死と復活によって、私たちは贖われ、赦され、救われたのです。ヨハネによる福音書10章28-29節にあるように、永遠の命が与えられたのです。神様が、主に与え、その主が私たちに与えられる永遠の命や、恵み、導きは、世にある全てのものよりも偉大で、消えることも、奪われることはないのです。神様と、イエス様が一体となって、私たちに「心を寄せて下さる」から大丈夫なのです。その喜びを、感謝を、私たち与えられている神殿、つまり、それぞれの教会で、宣教の業を行い、礼拝を捧げることで、心寄せて下さる神様を証ししていきたいと思います。

祈祷

天の父なる神様

愛知東地区「地区の日」相互応援伝道として、あなたの神殿である田原吉胡伝道所に、あなたから与えられたそれぞれの場所から招かれて、この主の日に集うこと赦されました。敬愛する兄弟姉妹と共に、あなたの御言葉を聞き、礼拝を守ることができ、感謝いたします。

私たちは日々、神様の業に生かされています。この恵みを感謝いたします。私たちは、自らの願いや、思いに囚われてしまい、神様の業を見失うことの多い弱い者です。どうか、あなたの示される日々の恵みに目を留め、いつも私たちに目を留めて、心を寄せて下さることを信じ、歩むことが出来ますように。生活の座に生きて働いて下さる主に倣い、私たちも隣人に心を寄せて、働く者として用いて下さい。田原吉胡伝道所の宣教の業が祝されますように。抱えている課題の上に導きが示され、神様の恵みが豊かに与えられますように。

被災をされ、悲しみや、困難さの中にある一人ひとりの上に、どうか主の深い慰めと癒し、豊かな支えがありますように。主の平和が来ますように。全てをあなたにお委ね致します。言い尽くしません、この感謝と願いを主イエスキリストの御名によってお献げ致します。アーメン

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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