説教 20240505「 心が曇ると他人を傷つける 」

 マタイによる福音書15章1~20節

説教

 ファリサイ派の人々がイエスの弟子たちが手を洗わずに食事をするのを見つけた時、イエスを批判して問いました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか」。しかしイエスはすぐにファリサイ派の心にある暗い闇を見抜きこう言ったのです。「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。イエスはファリサイ派やユダヤ教徒たちが掲げている「言い伝え」に潜む根本的な欺瞞を明らかにしたのでした。「言い伝え」とはユダヤ教の根幹である「聖書(律法)」とは別に後代の人間が書いて綿々と受け渡された日常生活についての伝承の規定文で「ミシュナ」とか「タルムード」と呼ばれる膨大な習慣法のことです。しかしまさにこの「言い伝え」は神の言葉と人々の間に立ちはだかり、むしろ人々から神の言葉を遠ざけていたのです。「これは神への供え物」と言って父母のものを奪って自分のものにしてしまい「父母を敬え」の十戒を踏みにじっている。

 ここでイエスが怒っているのはたんに彼らの強欲のことではありません。イエスの批判の矛先は彼らがそれを「神への供え物」と名乗ることにあります。人々を神の言葉から遠ざけるために「神」という名目を用いることです。それこそ「神の名を無闇に唱えてはならない」に反することでしょう。爾来、ユダヤ教のファリサイ派や律法学者たち宗教者は律法ならぬ「言い伝え」によってどれほど神を騙(かた)り人々を真の神の言葉から遠ざけ断罪してきたことでしょう。

 イエスは彼らを「偽善者よ」と厳しく呼び、みずから預言者イザヤの言葉を投げつけます。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」。「口先」、「人間の戒め」とはこの「言い伝え」のことです。人間にすぎない祭司や教師の語る言い伝えがあたかも神の教えのごとく教えられ人々の信仰を蹂躙しているというのです。

 イエスはそれを「汚すもの」と言います。口に入るものではなく口から出るものすなわち人間の言葉こそがどれほど人を汚し、傷つけ、迷わせ、殺すものであるか。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」。

 でも最大の「汚すもの」。ここでイエスは語ります。それは神の名を騙(かた)った人間の「言い伝え」のほかにない。たんに人からかけられた悪口なら、人から向けられた悪意や殺意なら誘惑も耐え乗り越えることができるでしょう。それはたんなる人間の悪意だから。しかしそれが神の名を名乗り神の教えを騙った言葉とするなら、それはまさに信じる人を抹殺し傷つけ誤らせるものでしかないのです。ファリサイ人や律法学者というただの宗教家が「神が命じられる」「神が望んでおられる」「神の意志にそむいてはならない」などと上位に立って祭壇や講壇や説教壇から神の言葉でなく自分の権威を人々に押しつけるとき、彼らはまちがいなく神を無にし、神に背いて人々を抑圧する者となっているのです。牧者を崇めよと教えるのは「言い伝え」以外の何ものでもありません。もし、牧者が自分の言うことが絶対ですべて従わねばならないという時、この牧者は神を殺しているのです。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」。神が植えられたのではない人間の「言い伝え」は抜き取られる。自分で獲得したような、神を騙(かた)った偽りの権威は真実の信仰を阻害するだけでなく、そんな偽善者の権威は信仰者が神の愛によって生きることさえ奪い取るのです。

 汚れと清めはただ神のみわざの中にあります。人間が清いや汚れを決めることはできません。神は「死に定められたこの体」(ローマ7章)をさえキリストの十字架によってどれほど愛し救われているでしょうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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