説教 20240818 「人はもくろむ、事を運ぶは神」

創世記39章1~23節

 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。

 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。

 「わたしの床に入りなさい。」

 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。

 こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。

 「わたしの床に入りなさい。」

 ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

 着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」

 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。そして、主人に同じことを語った。

 「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」

 「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。

 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。

説教

 これは神によって生きる人間が神を知らない異境の中で生きる物語です。そしてこのヨセフのように心の奥に神をもつ人間は異境の中でさえ自由にそしてまっすぐに生きるという物語です。ただヨセフは「はじき出された人間」でした。父をヤコブとする同じ兄弟の中の一人でしたが他の兄弟たちから疎んじられ、異国エジプトへと売られてしまったのです。エジプトは信仰の地ではありません。神約束された土地ではありません。ヨセフが本来生きる場所ではなく、異文化であり他者が支配し他者によって翻弄される世界にほかなりません。そしてまさにこの異境にドラマに描かれるような出来事がヨセフを巻き込んでいくのでした。

 エジプトに着いたヨセフは王に仕える侍従長のポティファルという人物に奴隷として買われました。この時ヨセフは37章冒頭の記述からしておそらくまだ十七歳過ぎの若者でした。成長期の若者の健康力を見込まれてかあるいは時に彼から放たれるなんらかの輝きに目を留められてか、ポティファルはヨセフを気に入ったのでしょうか。いやそれもこれもじつは神の秘めた計画とはたらきだったのです。ヨセフの異国での生活が始まるはなから創世記はまるで明記するように「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と書くのです。この「主がヨセフと共におられ」はこの後にも合わせて四回もまったく同じ言葉で書かれており、なるほどヨセフは異国には置かれているもののけっして神を失った孤独や寂しさの中にはおらず、ある平安の中にいることを表そうとしているのです。

 でもその平安は神との関わりばかりではなくヨセフの異国での外交的な人間関係の中でも生き生きと現れていたのでした。ヨセフはすでに主人ポティファルから大きな信頼を置かれお気に入りのように「目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」というのです。さらにこのヨセフとポティファルの信頼関係の上に神は「ヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ」という手に取ることのできる具体的実りにまで来るのです。

 ここに書かれる「うまく事を運んだ」とか「うまく計らわれる」はいかにも二人の信頼関係がじっさいにとんとん拍子で主人ポティファルの家を盛り上げ良好な状況を築いていったかをよく表わしています。つまりヨセフは一人ぽっちではあったものの人々の中で活躍しよく働き生きたのです。ただ「うまく」という言葉はほんらい「思惑どおりに」という意味ですが、ここではそれ以上にヨセフのすることを神が確実に実り豊かなものとするようにという神の意志の実現が込められています。ヨセフがそこで自由に生きることは神の確実な目的の行使のゆえだったのです。

 ところがそんな神の祝福を受けて生きるヨセフに重大な事態が襲いかかるのです。誘惑でした。主人ポティファルは家の取り回しの一切をヨセフに任せっきりにしていて自分は食事するだけと言わんばかりに全財産や人の管理もヨセフ任せでした。ヨセフは主人同様に家に自由に出入りできたのですがそこにいた主人の妻が彼を誘ったのでした。「わたしの床に入りなさい」。それはじつに直接的で即物的な誘惑です。なんの情感も心の揺らぎもありません。まさにこの世の言葉です。妻は毎日口を開けばこの言葉をくりかえしたのでしょう。欲望の毎日。それはともするとこの異国エジプトでは普通にあったこととも考えられます。誘惑の横行。それはまるでこの世じゃ避けられない慣行のように言われることがあります。自然なことだとも。だからこの妻には顔も表情もありません。欲情ばかりで感情がまったく見えません。誘惑にかぎらず世の貪欲や支配欲そして憎悪も表情無く「普通」の顔をして人々は行うのです。それがこの世なのです。

 しかしヨセフは悪を知っていました。誘惑や貪欲が「普通さ」を踏み飛ばして神に背くことを知っていました。「この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」。でもヨセフは引きずり込まれてしまいます。ポティファルの妻からは逃がれたものの彼女に掴まれ脱げ残した着物が証拠となって、なにかのドラマのように無実のヨセフが逆に誘惑者とみなされ捕えられてとうとう牢屋に入れられてしまうのでした。

 と、こう大変な逆境の事態にヨセフは陥るのですが、この聖書の物語はここで終わらず、またまた面白く痛快なことを描くのです。なんと捕えられたヨセフはこの牢屋の中でもまたもや信頼を受けるのです。それは牢の看守長からの信頼でした。ポティファルから家のすべてを任されたのと全く同じようにヨセフは看守長から信頼され囚人たちの世話の一切を任されたのです。そしてここでも創世記は「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので」と書き記します。よほどヨセフは「メゲない」性格の持ち主だったろうかと推測してしまいますが、そんなヨセフの性格などの個人的な要素に聖書は目を留めません。再びここでもヨセフに伴うあの「うまく」が出てきます。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」と。まさに異境の不安の中になおも彼を守る平安です。

 エジプトであれ現代であれ、いつどこにあってもこの「主がうまく」があります。生きる場所が本来の故郷から遠くになっても、神の地、約束の地、信仰の場所から離れても、神は愛する人間「と共にあり、うまく計らわれる」のです。たとえその時々に誘惑や試練や困難が襲おうともそのただ中でわたしたちは「神のうまく」によって運ばれて確実な平安の中を生きられるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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