説教 20240804「神は力強く助けてくださる 」
マタイによる福音書14章22~36節
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
説教
「暗中模索」という言葉があります。将来のことがつかめないまま懸命に生きていく状態をいいます。簡単に言うと手も足も出ないことでしょう。わたしは二回溺れた経験があります。小学生の頃に海水浴場で、その時は友だちが助けてくれました。中学生の時は学校の水泳の時間プールの真ん中で、先生が助けるときの見本の例のように抱えられて助かりました。溺れると苦しいけど水中から水面が見えます。水面に上がろうともがいても何ともならない恐怖に襲われます。その時水面から自分に向かって友だちの腕が下りて引き上げてくれたのをしっかりと覚えています。心理学では「夜の航海」というイメージが「暗中模索」にあたるといいます。自分がこれからどこに進むのか、今だってどこにいるか解らない。何をしているか何をしていいかも解らない。じつは誰もがそんな不安や恐れをもって生きているのではないでしょうか。人間は確かなものしっかりしたものにすがりそれを頼って生きようとします。テレビやインターネットの間では人生保証のように財テクや健康用品やサプリが叫ばれ、これさえあれば一生安心とばかり迫ってきます。でも行きつくところ「カネ」「モノ」でしかありません。
キルケゴールというキリスト教思想家が言うには、人間は初め快適さ(美的)を求めて生きるがやがてそれは限界に達し(全焼し)、次に正しい(道徳的)生き方に飛び移る。でもそれも極めきれずついに絶対的な神を頼る(宗教的)生き方を選ぶ。それぞれの段階に確かさが見いだせず、じつは最後の宗教的生き方でも不安はぬぐえない、というのです。キルケゴールにとっては宗教的生き方よりも真実に生きることが出来るのは不確実の中で「決断」する信仰の生き方だといいます。実存主義のハイデガーは、わたしたち人間は日常滞りなく生きているが、ひょっとしてこれは何になるのか、何にもならないんじゃないかと不安を抱く存在「死への存在」だと言いました。いつか年をとって死ぬというんじゃなく、いつなんどき死ぬか解らない不安。いや死のことばっかりじゃなく、今自分が「これが人生、これが青春、これが幸せ、これが自分だ」と安心していてもわけもなく心に「それでいいんだろうか、そうじゃないんじゃないか」と自分が存在することに理由も目的も全然みつからない不安に襲われる、それが人間なんだと言いました。
五千人に恵みの晩餐を与えた後でした。どことなく陰鬱な情景となります。イエスは群衆を帰らせ、弟子たちを「強いて」舟でガリラヤ湖を渡らせます。イエス自身は独り山に上りました。殺されたヨハネを悲しみ祈られたのでしょう。夕暮れもすすみ、夜のとばりが次第に深まっていました。弟子たちの舟はほんとうは湖岸にそって進ませるものでしたが、なぜかこの時流されて沖合にでてしまったようです。しかも沖は風が逆風でなかなか前に進めませんでした。イエスに伴われない弟子たちは荒々しい風や波にのまれそうで、暗闇の海の恐怖が心細さをいっそうつのらせていました。ガリラヤ湖は浜名湖のおよそ二倍半くらいの大きさです。湖の南側から北のゲネサレまでおよそ20キロメートルを(田原から三河湾で吉良くらいまで)行く彼らは絶望の淵を漂うような気持だったでしょう。もう何スタディオン(1スタディオンは200メートル弱)も沖に出ていたといいます。漕いでも漕いでも進んでいるとは思えない悲痛な姿はまさに「暗中模索」で初代の教会の有様だったとも言えます。
そんな時そこにイエスが現れたのです。湖の上を歩いてイエスがやって来られました。ところが弟子たちは叫びました、「幽霊だ」と。「ファンタスマ」という原語です。化け物とか妖怪という意味です。旧約聖書には海には魔物(レビアタン)が現れ命あるものをことごとく襲い殺すという描写があります。彼らは風吹きすさぶ湖上を悠々と歩くイエスを見てもイエスとは思えなかったのです。恐怖に慌てふためく弟子たちにはたといイエスでも恐れの対象にさえ見えたのです。
しかしイエスは弟子たちが叫び終わらないうちにそれを打ち消すようにすぐにこう呼びかけました、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。まるで荒ぶる波や風が一瞬にして鎮まってしまったかと思うほどのイエスの言葉でした。波風に揺らいでやまない不安がじつに静かにぬぐい消され、あたかも大きな岩山に辿り着いたような堅固な言葉でした。じつはこのくだり、ある有名な場面とぴたりと重なるのです。ルカによる福音書24章39節です。
「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」
そうです。復活したイエスが現れる場面です。イエスの十字架の死の後、沈み塞ぎ込んでいる弟子たちに復活のイエスが現れますが、弟子たちは湖上と同じ反応をします。イエスを「亡霊だ」と思ったのです。そんな弟子にイエスは以前と変わらない骨も肉もある確かな体を示したのです。食事さえしてその日常が確実であることを示しました。イエスの湖上での現れの物語りの含みにはこの「イエスの復活」の確実さが込められているかもしれません。しかしただ、ここではわたしたちはなによりもイエスの言葉こそが堅固であり確かであることをまず知ることができるのです。
この時とくにイエスの言葉の堅固さに感動し率直に反応したのは言うまでもなくペトロでした。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。イエスの「わたしだ」にぴたりと応じる「あなたでしたら」です。弟子たちにとってもっとも大事なことはイエスの存在の堅固さ確実さを知ることでした。そのとおりペトロはそのイエスの堅固さに足をかけてたとえ水上だろうと歩もうとしたのです。そして仲間から一人離れて舟を出たのです。ある意味で教会の枠を越えて自分で歩こうとしたのです。それもまたイエスのところに行く信仰の行為といえます。ただ聖書はペトロが足を踏み出し歩きはじめイエスのほうへ進んだけれども「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ」ついに「主よ、助けてください」と発してしまうのです。ここで印象的なのはイエスがペトロを「すぐに手を伸ばして捕まえ」るという動作です。溺れた時に水中に入ってきた友人や先生の手を思い出します。西洋の紋章に空の雲をヌッと突き破って下りてくる腕の絵の柄があります。神の手はじつに剛腕であり強引なほどといえます。底なしの不安に怯え絶望を恐れるわたしたちを捕まえるのですから。助けるというよりイエスは「捕まえる」のです。救いは剛腕なのです。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。じつはこのイエスの言葉もペトロにそしてわたしたちにとってもっとも確実な言葉ではないでしょうか。ペトロは沈みました。でもペトロは敗けたのでしょうか。いえ彼は「主よ」と叫んでイエスに確かな助けを信じて求めたのです。聖書が描く信仰者像はイエスと同じように水上を歩ける超人ではありません。イエスにすがったペトロはまっとうな信仰者のありかたを表わしています。そしてイエスの確実で強い手に捕まえられて引き上げられ生きるのです。
暗中模索の中でわたしたちがイエス・キリストの言葉を聞く時に、わたしたちの手や足がどれほど空回りしても、イエスの言葉は恐れをことごとく拭い取る確実で堅固な土台となるのです。
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