説教 20240721「嫁の意地が家を救う」

 創世記38章1-30

 そのころ、ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張った。ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入った。彼女は身ごもり男の子を産んだ。ユダはその子をエルと名付けた。彼女はまた身ごもり男の子を産み、その子をオナンと名付けた。彼女は更にまた男の子を産み、その子をシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダはケジブにいた。

 ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」

 オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。ユダは嫁のタマルに言った。「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。

 かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を切る者のところへ上って行った。ある人がタマルに、「あなたのしゅうとが、羊の毛を切るために、ティムナへやって来ます」と知らせたので、タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。シェラが成人したのに、自分がその妻にしてもらえない、と分かったからである。ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。

 「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」「どんな保証がいいのか」と言うと、彼女は答えた。「あなたのひもの付いた印章と、持っていらっしゃるその杖です。」ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。

 ユダは子山羊を友人のアドラム人の手に託して送り届け、女から保証の品を取り戻そうとしたが、その女は見つからなかった。友人が土地の人々に、「エナイムの路傍にいた神殿娼婦は、どこにいるでしょうか」と尋ねると、人々は、「ここには、神殿娼婦などいたことはありません」と答えた。

 友人はユダのところに戻って来て言った。「女は見つかりませんでした。それに土地の人々も、『ここには、神殿娼婦などいたことはありません』と言うのです。」ユダは言った。「では、あの品はあの女にそのままやっておこう。さもないと、我々が物笑いの種になるから。とにかく、わたしは子山羊を届けたのだが、女が見つからなかったのだから。」

 三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」

 ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。

 タマルの出産の時が来たが、胎内には双子がいた。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、「これが先に出た」と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。「なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして。」そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたので、この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。

 説教

 「乾坤一擲」という言葉があります。乾は「天」、坤は「地」そして一擲は「賽ころを投げる」という意味だそうです。つまり乾坤一擲とは「天(吉)となるか地(凶)となるか、いちかばちか大勝負に出る」という運命の岐路にあえて立つことを言います。

 ただ男性の場合は仕事やミッションでそんな勝負に出ることはあると言えますが、女性はどんな情況にそんな決断をするのでしょうか。創世記でいえば自分の人生を神の言葉に従って将来を決断したのはアブラハム独りと言えましょう。イサクはどちらかといえばアブラハムに護られて生き、ヤコブは己が策謀の報いで異境に逃避し、その子孫でエジプトに売られたヨセフにしてもけっして自分の勇躍たる決断によって人生を選んだとは言うことはできません。ところがここに女性としてまた家に入った嫁として自分の運命をかけた決断をおこなった人物が登場するのです。それがタマルでした。タマルはイスラエル人ユダが兄弟から独立し南のアドラムという地に家を置いたとき長男エルに迎えた嫁であり、当地カナンの女性でした。

 ちょっと待って話のつじつまが合わないと思う人もいるでしょう。もっともです。前の章では十一人兄弟の策略でエジプトに売られてしまうヨセフの物語だったのにどうして突然展開が逸れるのと言うでしょう。いいえ逸れてはいません。マタイによる福音書の「イエス・キリストの系図」を見ましょう。そこにはヤコブの子ヨセフの名は出てくるでしょうか。出てきません。しかし系図はアブラハム、イサク、ヤコブの次に四男ユダとタマルの名をも忘れずに記しているのです。そして二人による子孫はやがてダビデにもイエス・キリストにもつながります。そうです。聖書の本流はむしろこのユダとタマルの出来事にあります。創世記はこれ以後もヨセフの物語を続け、それは「出エジプト記」にまで進みますがイスラエルの主たる歴史はユダとタマルの子孫たちに続くことを示しているのです。

 ところがそんな本流であるユダの家に不幸が襲うのです。ユダは兄弟から離れカナン南部のベツレヘムの西南にあるアドラムに定住し、カナン人の娘シュアと結婚して三人の息子エル、オナン、シェラをもうけます。そして長男エルにタマルという女性を嫁に迎えたのでした。ところがエルは子供をもうける前に「主の意に反したので、主は彼を殺された」というのです。どんな死か事故死やら病死やらその事情は分かりませんが、長男が子孫を生まないまま死ぬと弟が代わって長男の嫁と結婚し「長男の子供」を生まなければならない「義兄弟婚(レビラト婚)」という制度(申命記25章5)がありました。後代ではルツ(イスラエル人の夫に嫁いだモアブ人で未亡人となる)とボアズ(死んだ夫の遠い親族)もそんな関係でした。しかし弟のオナンはそれに従い形ばかりは兄嫁タマルの床に入るのでしたが、最後は「子種を地面に流した」のでした。生まれた子は自分の子にならずに兄エルの子とされてしまうからです。こうして定めを拒否したオナンもやがて死んでしまいます。三男シェラはまだ幼なかったこともあり義兄弟婚は行われず、嫁タマルは実家に帰されます。しゅうとのユダはタマルを「不吉な嫁」と考えたのかもしれません。旧約聖書外典トビト書にはサラという女性が悪魔アスモダイに取り憑かれ彼女と結婚した男性7人はことごとく最初の夜に殺されてしまい、サラは不吉な女性という噂が立った逸話があります。そんな不吉な嫁に三男シェラまで死なせてはという思いからタマルを遠ざけようとしたのです。でもそれはタマルにとっては自分がユダの家からもはや無用の存在とされ棄てられるような悲しみを感じることでした。

 やがてシェラが成人した頃でしょう。ひとつの出来事が起きます。ユダの妻が死んだのです。ユダは淡々と妻の喪に服した後、その喪の明けへの感謝として羊の毛を刈るという儀礼にティムナという町に出かけます。このしゅうとユダの予定を知らされた時、タマルはある思いを心に秘してひとつの行動に出たのでした。

 ユダが無事に喪明けの羊の毛刈の儀式を終え、ひと区切りついた気持ちで家に帰り行く時でした。その途中の道端に一人の神殿娼婦が座っているのに目を留めました。神殿娼婦の多くは夫を亡くした女性や身寄りのない女性たちでした。街の娼婦と違って悲しげに顔を覆っている神殿娼婦を哀れんでか、ユダはその神殿娼婦に声をかけたのです。するとその女はユダとお礼の交渉をします。ユダが羊一匹をと答えると女は羊が来るまでのその担保となる保証の品を要求しました。女はユダの「転がし印章(粘土板に転がして刻印する円筒型印章)」と家長の持つ杖を求め、ユダはそれを渡してからその神殿娼婦の床に入ったのでした。

 さてユダが約束どおりに羊を届け自分の印章と杖を返してもらおうと友人をその町に送ったところ、人々の言葉は意外なものでした。誰一人そんな神殿娼婦のことなど知らずそれどころか神殿娼婦など街にはいないというのです。これ以上神殿娼婦を探し回っても人々の嘲笑の的になるだけと、結局ユダは羊も渡せず印章も杖もあきらめそれ以上詮索することはやめました。

 ところがそれから三か月後、とんでもないことがユダの近親に起きました。実家に帰していたタマルが姦淫を犯ししかも子どもまで身ごもったというのです。人々の怒号の上がる中、ユダはすぐにタマルを裁判にかけて姦淫の罪で焼き殺せとまで言ったのでした。するとタマルは自分の手元にあった品をユダへの使いに持たせこう言わせたのです。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです」と。見るとそれはまさにユダがあの神殿娼婦と約束をしたときにあずけた彼の印章と杖に他なりませんでした。そう、タマルが身ごもったのはあの神殿娼婦を見染てその床に入った人物すなわちユダに他ならなかったのです。眼前に差し出された印章と杖がまさに自分のものであると知ったときユダは身も心も震わせたに違いありません。そしてユダは「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と言い、タマルから生まれる自分の子どもをユダの家を受け継ぐ者と認めたのでした。

 ここで注目すべきはこの物語の中で事の重大さをもっとも深く知ったのはユダでなくむしろ嫁であるタマルだということを創世記が言おうとしていることです。ユダはむしろ逃げようと考えていました。タマルを帰らせる。縁を切って別の嫁を三男にもらおうなどと。このユダの家の緊急事態を見抜いていた者こそタマルだったのです。タマルを不吉な女と考え三男シェラとの結婚を遠ざけたユダをタマルはもはや家を棄てたと人間しか思えませんでした。家を救う最後の残された手段がただ自分にしかないことを受けとめたタマルは、女性としてそれが一歩間違えばどんな激しい責めを負うことになるかを覚えつつも、その身をやつしてもユダの前に立たざるをえなかったのです。

 人間や社会はユダのように問題が大きくなることを遠ざけます。それに立ち向かい身をもって解決しようとするのでなく、渦中の事件や人間を無かったことで終わらせようとします。タマルはまさに女性としてそこに乾坤を問う一擲をかけたのです。いちかばちか捨て身の訴えをしたのでした。それは彼女にしかできないそして彼女ならばこそできる決断だったのです。

 タマルという名の意味はナツメヤシあるいは棕櫚です。イエス・キリストが十字架にかかるためエルサレムに来られるとき人々が手にかざして迎え入れたあの棕櫚のことです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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