説教 20240616「夢は苦難から始まった」

創世記37章1~36節

 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。

 ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。

 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき、イスラエルはヨセフに言った。「兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが。」「はい、分かりました」とヨセフが答えると、更にこう言った。「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。」父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。ヨセフがシケムに着き、野原をさまよっていると、一人の人に出会った。その人はヨセフに尋ねた。「何を探しているのかね。」「兄たちを探しているのです。どこで羊の群れを飼っているか教えてください。」ヨセフがこう言うと、その人は答えた。「もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが。」ヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで一行を見つけた。兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。

 ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。

説教

 ここに失われた人間の物語が描かれます。ヨセフ。彼は彼を知る人々からは失われた者あるいは死んでしまった人間とされてしまいました。旧約聖書のイスラエル民族は12部族です。ところがその中にはヨセフ族という部族はありません。ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルの最初の子でヤコブの11番目の男子でした。でもイスラエル民族から死んだ者、失われた子とされて系図から消されてしまったのです。ところがイスラエルから失われたはずのこのヨセフはやがて数奇な人生の変転の末ついにイスラエルの救い手として再会を果たします。創世記が描こうとするのはこのヨセフが失われ死んだとされて異境エジプトでたったひとり神の導きによって生き抜きついに復活してイスラエルにつながる物語です。すなわち創世記が独特に描く人間の死と復活の物語です。

 失われ死んだとされる人物がここに登場します。ヨセフです。「告げ口」と書いてあります。告げ口するような人間はもともと仲間に入らない人間です。自分を特別と思っているような人間です。牧羊をする兄たちのまわりにいたのですが、帰っては兄たちのことを父ヤコブに話していたといいます。兄たちにとっては「イヤな奴」だったかもしれません。それだけならまだしも、兄たちは父ヤコブがあまり愛情を注いでいなかったレアや仕え女らの子であったのに対し、ヨセフはぞっこんであったラケルから生まれた初めての子だったのでした。そのためヤコブはヨセフを溺愛して、毎日よそ行きの服を着せるなど、あからさまに兄たちとは異なる愛情の入れ込み具合で、兄たちはヨセフに対してはどうしても妬みや憎しみの感情を抑えることができなかったのでした。今日なら「あいつは天上びとだ、唯我独尊、孤高の人だ」などと言われるかもしれません。

 もうひとつヨセフが兄弟や家族にたいして波風立たせたことがありました。それはヨセフがつねづね「夢を見る少年」であったことです。この時ヨセフはすでに17歳でしたがおそらく幼い頃からも同じような夢を見ては周りに話していたのかもしれません。ここでは二つの夢が話されます。最初は畑にある「束」の夢。兄たちの束ねた束がヨセフの束を取りまいてひれ伏したというのです。兄たちは言いました、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」次は天体の夢です。太陽と月と十一の星がヨセフにひれ伏すのです。これには父ヤコブも心穏やかならずヨセフをたしなめたのでした。見る夢見る夢みな自分のことばかり、あまりにも自己中心に「王子様」のようになり、家族がふりまわされてしまうという話をよく聞きます。

 そしてついに、積もりに積もったヨセフにたいする兄たちの妬みと怒りが事件を起こしてしまいます。ある日父ヤコブにシケムで働く兄たちの様子を見てくるように言われたヨセフは兄たちを追って行きます。行くとそこにはもう兄たちはおらず、ある人が言うに彼らは少し北のドタンに行ったと聞き、さらに遠くに進みます。やがて兄たちに追いつくのですが、いつもより遠く離れたその地にヨセフが来たことを知ると兄たちは良からぬ相談をするのです。「ヨセフを殺してしまおう。野獣に食われたと言えばよい。」「殺人」の相談ですがそれでもためらいが生じます。長男のルベンは「殺すまではするな」と言います。四男のユダも「隊商のイシュマエル人に売ればいい」と言います。イシュマエル人はイスラエル人と血縁的つながりのある民族だからという気持ちが働いたかもしれません。ところがそこに異国ミディアンの隊商が来て傷めつけられたヨセフを捕えてイシュマエル人に売り早々とヨセフはエジプトへと曳かれていってしまったのでした。せめて知り合いのイシュマエル民族の手にという思い計らいは破れ、ついに異国へと失われたヨセフを長男ルベンは嘆くのですが他の兄弟たちはヨセフの服に獣の血を塗りたくってヤコブに「ヨセフは死んだ」と報告するのでした。ただこれは兄たちの非常に暴力的な復讐のように見えますが、昔行われていた「村八分」に似た側面があります。社会的な見方をすれば兄たちは良識を遂行し生活を正常に戻したとも言えるのです。

 ところが、ここまで読むとある特色が見えてきます。この物語の顛末を追うごとにこれまでのイスラエル一色であった創世記がなぜかユダヤ的ならぬ異国的な様相を帯びてきていることを感じます。周りから浮いた服装のヨセフにはイスラエル的ではないエキゾチックな雰囲気が感じられます。同じ夢でも父ヤコブが神と対面したベテルでの夢とは雰囲気が違います。ヨセフの夢には神は現れず運命観的です。「畑の束」は遊牧が生業(なりわい)のイスラエルには合致しません。「太陽、月、星」と来るとまさにオリエンタル的です。事実ヨセフはほんとうに異国エジプト世界の奴隷として生きていかなければならなくなるのです。イスラエル民族からすればそれは「死の世界に住む」ことと同じだったのです。兄たちを見失った時ヨセフに現れた人物はどこか見知らぬ世界へ誘うような存在にも思えます。イスラエルの家族の中を「生」とすればエジプトは「死の世界」を意味するものなのです。たといエジプトが当時の大都会であっても。こうしてヨセフはやがて兄たちの暴力をとおして一機に吸い込まれるように死の異境エジプトへと移されてしまうのです。こうしてヨセフは死の世界、富と繁栄の都エジプトにうごめく人間となります。描かれるのは死と隣り合わせのギリギリの人生です。

 この創世記、よく考えるとおかしいとは思いませんか。はじめイスラエルの始祖アブラハムは神からどのような約束を受けたのでしょう。「星の数ほどの民となる」です。しかしこのヨセフに至ってイスラエルの人々は死のような異国に生きることになるのです。創世記はイスラエルが神の民としての民族形成や国家形成を完成したというように記述を終わらせません。あたかも教会がこの世の現実へと向かわされ派遣されて生きていかざるを得ないのと同じく神の民族はヨセフから始めてあえてエジプトへと送り込まれていくのです。

 ここであの「畑の束」と「太陽、月、星」の夢の意味をはっきりとさせましょう。ヤコブの家族は失われ死んだヨセフの復活を見出し、喜ぶのです。それは異境である死と困難の世界つまりこの世の中でも力強く生かされる神の民のあり方です。創世記は死の世界の中でもヨセフに対する神の大胆な働きかけを描きます。この世の困難の中のヨセフの生き方を支配する神として現わします。そしてヨセフはこの死の中で神に導かれやがて命へと復活してイスラエルをも救う者となるのです。それはわたしたちの生き方ともなるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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