説教 20240602「目だけで見ると見えなくなる 」

マタイによる福音書13章51~58節

 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

説教

 天の国の喩えの教えは終わりました。「種蒔き」、「毒麦」、「畑の宝」、「高価な真珠そして「網で捕れた魚」と息つく間もないほど次々と語られ、圧倒的なほど豊かにイエスの口からまるで止めどなく湧き出る泉のように天の国のありようが描かれたのでした。それは12章の安息日をめぐるユダヤ人との論争から始まりました。神がどれほど人間の命に心を向け憐れみ深く世の最後まで守ろうとしておられるかをイエスは熱く強く群衆や弟子たちに語ろうとされたのでした。

 だからこれらの「天の国の喩え」をすべて語られた後、あらためてイエスは弟子たちにきっぱりと「これらのことがみな分かったか」と問われたのです。この「分かる」は「悟る」とか「理解する」以上の意味です。続けて言われる「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」の言葉から分かるでしょう。「天の国のことを学ぶ」とは「天の国」とみずから一体となることです。「体得する」と言えましょう。学者が自分の知識と一体不可分になり、思いのまま自分の身体の一部のように知恵を駆使するのと同じく、「天の国」を知った人間は今自分が天の国の一人であるかのように天の国の光に満たされて生きていけるのです。

 さてところが今ここに、「天の国」とはまったく正反対の実のない哀しい喧騒の声が上がるのでした。ひょっとしてそれは天の国がどれほど豊かで命に溢れたものであるかを際立たせるためとも言えますが、イエスのことを知っている人々がイエスの生い立ちやら家族のことをけたたましく言いふらすのでした。そこは郷里ガリラヤでしたから。そこにはイエスを生まれから知る同郷の人々がおり、30年にわたってイエスの日常生活を見てきた近隣の人間にとっては今そこで天の国を語るメシアの姿はぜったいに彼らの頭の中の「近所のイエス」と一致することができなかったのです。

 「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55,56節)。これはまさに社会での会話です。この世の声であり意見であり重要な知識です。もちろん一緒に生きている社会の誰それや何がしかをしっかりと知ると言うことはこの世で身につけなくてはならないものです。「我々と一緒に住んでいる」のですから。さらに社会のこと経済のこと政治のこと世界のこと、それは正しく知らねばならないでしょう。そしてそれをこの人々は叫んだのでした。それはまさに「天の国の知識」とはまったく正反対の「この世の知識」にちがいありません。でもそのこの世の知識ゆえに彼らはイエスのことを「分かる」ことが全然できなかったのでした。イエスをこの世の知識でしか見ることが出来なかったからです。見たり聞いたりでイエスのことを理解する。あるいは新聞で触れる、テレビニュースで見る、研究書で読む。しかしそうすればするほど天の国を語るイエスは遠のいていくのです。なぜなら聞き伝えも新聞もテレビも研究書も頭の中だけでイエスを創り上げているだけだからです。

 セブンアップというドリンク飲料がよく売れていました。爽やかなグリーン色の缶ジュースでしたが、新しい企画で色やデザインを変えたそうです。そうして売り出したところ「セブンアップの味を変えないでください」というクレームが相次いだそうです。中身は一切変えていないのに外見を変えただけで「味」が変わったと騒がれたのです。人々はそのジュースの外見を飲んでいたのです。その外見でなければセブンアップの味ではなかった。

 「ルッキズム」という言葉が最近言われます。ルックス第一ということ。訳せば「外見至上主義」。「見た目こそ重要」「外見がすべて」ということでしょう。よく言う「ビジュアル重視」です。芸の上手さより見栄えの芸能人、地味で上手な音楽家より下手クソでもカッコいい音楽家、どんなにあくどい商売をしても儲ければセレブ、そして人を殺すような独裁者でも威厳があれば国家リーダー。日常でいえば「映えするもの」に「いいね」が集中し、会社の就職試験では「顔採用」というのがあり、女性ばかりでなく男性まで美容整形することも。そしてついに外見が良いから中身まで良いと判断されるようになる。まさにそれがこの世のありようでしょう。

 はっきりとした対比があります。「わかりました」と答える弟子たちに対してまわりの人々は「この人は、このような(天の国の)知恵と奇跡を行う力をどこからどこから得たのだろう。(まったくわからない)」と言うのです。人々は全然その人の中身、本質を見ません。いや見ることが出来ないのです。すべて外見で判断し、外見で選び決め、うわべを見る判断や見方が絶対正しいと信じて動かない。「あのイエスは大工のせがれでこういう奴だったのに。家族も知ってるぞ、親や兄弟のことも」。まるでひけらかすように自分の持っている知識がホンモノだ正確だとさらけ出します。でもそうやって人間は自分の知識や確信によって真実が見えなくなっていきます。

 もうひとつ目を引く言葉があります。「このように、人々はイエスにつまずいた」(57節)。じつは「つまづき」には「罠」や「騙し」「誘い」の意味があります。それは彼らのよく知るイエスでした。「あー、あいつのことよく知っている」というイエスについての人物評が真にイエスを信じることを塞いでしまったのでした。高慢でした。傲慢でした。自分の知っていることが正しい、ホンモノだという確信が神にひざまずくことを忘れさせてしまいました。そんな自分の考えの絶対化や正当化から差別が生まれてくるのではないでしょうか。あるいは「いじめ」が大手を振ってまかり通ってしまうのではないでしょうか。人は自分の思っている正しさが他人を傷つけても通用するととても安心します。他人を傷つけても自分を正当化したいのです。それは隣人への謙遜をないがしろにした姿と言えます。群衆はイエスを偏った目で見て、ついに新しく生きることを拒絶してしまったのです。それはイエスのことばかりでなく隣人や友のことでもあります。友や隣人をほんとうに大切にすることとは敬うことであり尊ぶことです。イエスとの交わりに奇跡を起こすのはイエスの謙遜を知ることです。十字架の死によってわたしたちに手を差し伸べられたという謙遜の姿を知るときわたしたちの存在も傲慢も破壊されてイエスの命の中に生きる奇跡が始まるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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