説教 20240505「神の答えを胸に 」
マタイによる福音書13章24~43節
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
説教
「なんだ、そんなことか。そんなこと、とうに分かり切ってる。エライ人の話かと思って聞いたのに」。イエスが種蒔きの喩え話をしたとき、聞いた群衆の中にはそう思った者たちもいたでしょう。その頃の農作にかかわる人間にとってはイエスが語った種蒔きの様子など、ごくありふれた当たり前の情景だったからです。「自分たちがしている毎日の仕事をあらためて話されても今更そこから教えられることなんか、何にもない」と思ったかもしれません。
この時イエスは湖の上に船を浮かべてそこから群衆に語り、群衆は岸辺で一歩遠のいたイエスからその喩えの教えを聞いたのでした。群衆の中で彼らを鼓舞する英雄や握手までして聴衆に語りかける選挙候補者のようにではなく、聞く者にとってごく当たり前のような話を淡々と語ったイエスでした。
喩えがあまりの日常的で当たり前の話だったことに弟子は「どうして喩えで」と問うたことにイエスは旧約の預言者イザヤの言葉によって答えました。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」。それは人間への厳しい警告と批判でした。イザヤは、目の前に告げられている神の言葉や裁きに耳を傾けず気付きもしないで「それがどうかしたのか」とばかり日々を過ごすユダヤの指導者や民たちを糾弾したのです。日常に当たり前すぎて何にもない、見つけられないような生活の行動や言葉や人間関係の中に気付くべきことがある。学ぶべきものがある。教えがある。神の言葉とはそのようなもの、目を見開き心を向ければそのように目の前に明らかに啓示され突き付けられているというのです。そしてイエスは「(聞く)耳のある者は聞きなさい」と印象的な言葉で呼びかけます。そして説明の最後に「御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」と驚異的な結末を語るのです。それはもともと何もなかった処には百倍にもなる実りが隠されているというのです。ある意味それは「無からの創造」になぞらえられるような喩えであり、さらに思いを馳せるなら命のないところに神の言葉によって起きる「死人の復活」にもつながる喩えと言えるでしょう。だからイエスは「聞け」と言われるのです。「悟れ」と言われるのです。何もないじゃないか、苦しく意味のないことばかりじゃないかと言うそこで、全身全霊で聞き、神の言葉にしがみつく時、信仰は見えない答えを悟り、神の見えない支配を発見するのです。
そして種蒔きの喩えをさらに深めるようにイエスはもう一つの「毒麦の喩え」を語るのです。先ほどの日常の平穏にも見える「種蒔きの喩え」からすると一転して畑は「毒麦」の侵入を受けた禍々しく険しい状態の中に描かれます。「毒麦」とはジザニアというギリシア語で「ヤハズ(カラス)エンドウ」に近い雑草だったようです。特段の毒性はないが、蜜が出て蟻を寄せて麦の質を落としたりします。日本でも昔は湯がいて食べることもあったらしいですが、それが毒草とされたのは他の植物である麦などの畑にも根を伸ばして地中で麦の根に覆いかぶさって駆除が困難になったり、地上でも「ツル科」の特性上麦に絡み合ったりして収穫を難しくしたためだといいます。こうした「毒麦汚染」は自然環境的な原因の他にも喩えで「敵の仕業」と言われるように敵の民族や部族が相手の経済や平和を乱すためによく行ったことがあったそうです。対処法としては喩えの主人の言うように良い麦も毒麦も双方成長させておき、刈り入れの時により分けて収穫し、毒麦のほうは焼き棄ててしまうというのでした。
注目すべきことがあります。この毒麦の喩えになると前のたんなる種蒔きの喩えと違って、ある特徴が目につきます。それは「天の国は」と始められる言葉です。ついにイエスはこの一連の喩え話の全体が「神の国、天の国」を表すものであることをはっきりと言うのです。すでに種蒔きの喩えの説明でもイエスは「御国の言葉を聞いて悟らなければ」とそれが天の国の喩えであることを示します。「毒麦の喩え」以後はどの喩えもすべて「天の国は」と始まるのです。
「天の国」の喩えはいったい何を表すのでしょうか。それは「すべてに対し答えは必ず明らかになる」、「明るみに出る」ということです。そして神の国が現れてすべてが一変するというのです。見えないほど小さなからし種は成長すると鳥が巣を張るほどの大木になる(31節)。一つまみのパン種はパンの全体を膨らます(33節)。後の隠された宝(44節)も一粒の真珠(45節)も見つけた人の全財産をとんでもなく左右するほどとなり、海から引き上げられた網の魚たちも岸でついに良い魚と棄てる雑魚とがじつにはっきり分けられるのです(47節)。何が真実なのか、何が希望なのか、どのように生きていくべくなのか解らずただ迷い悩む今のわたしたちに神は必ず答えを備えていてくださる。そして必ず明らかにされるのです。
「世の終わりにもそうなる」(40節)というイエスの言葉はなにかの年表の最後欄に書き込んでおける予定のようなものではありません。「世の終わり」。その時代それを聞いた人々は全身を身震いさせました。それはイエスの時代のすべての人間にとっては、ついに啓示された神の力強い答えだったのです。この喩えを「天の国の喩え、世の終わり」という神の最終決定として聞いた人間にとっては、もはや今生き方を見つめなおし、全身が引き締められるほどのものにちがいなかったのです。
世の終わりや終末は未来や将来の言葉ではありません。天の国も終末も今を生かす現在への福音なのです。
苦しむとき、この自分の苦しみの中にこそ神が答えを隠しておられることを信じる信仰は苦しみを乗り越えるのです。苦しみや人生の壁、あらゆる人の悲しみ、困難に神が答えを備えていなかったらすべては悲しい無意味となったしまうでしょう。どんな状況にあっても「わたしが答えを用意している、わたしがあなたのためにすべてを明らかにする」とイエスの譬えはわたしたちを励まし勇気づけ立ち上がらせチャンスを創造させるのです。
0コメント