説教 20240421「和解から自立へ 」
創世記33章1~11節
「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。「一緒にいるこの人々は誰なのか。」「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」ヤコブが答えると、側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した。
エサウは尋ねた。「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」
ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った」
臨床心理治療家の河合隼雄氏は「心を理解することは命がけとなる」と随所で言っておられた。人生をたどり心の姿を尋ねようとするとき人間がどれほど窮地に追いやられ闘わねばならないかを河合氏は多くの人々との出会いで知っておられた。人間はいずれにせよ闘わなければならない。戦争でなくても災害という窮地でなくてもごく普通の生活の中でも立ち向かい闘わねばならない状況に出会うことが必ずあるのです。このヤコブの物語に関連付けて言えば「遺産争い」などは日常に起こります。いくら法的に分与がきちんと定められていようと、その多い少ないを巡ってやがて不平憤懣がつのり口汚いやり取りになってしまいます。ここでそんな骨肉相喰む惨状を避けようとして相歩み寄っても、互いに心身ともに擦り減らし、ただ怒りや憎しみをあらわにするだけで双方が心底理解し合うまでには仲々いかないものです。しかし人生での闘いといっても立ち向かう相手は単純な「外の敵」ではないのです。たんに目の前から追いやったり消したりできるものではありません。
ヤコブは闘わなければならない人生を歩みました。それもまさに「遺産」問題から始まりました。兄エサウとの確執。それが終生ヤコブの人生に大きく陰を落としていたのでした。たとえはるか遠く叔父ラバンのもとに逃げても、さらに20年という年月を挟んでもヤコブが背負った兄エサウに対する暗いやましさと恐怖は拭いようもなく重く心にのしかかっていたのでした。闘わなければならなかったのはそんなヤコブの心を圧し歪めていた彼自身の身から出た錆のような罪だったのです。それはヤコブが真に生きるためいつか必ず真正面からどんなに苦痛を背負っても立ち向かい、けじめをつけて決着の責任を取らなければならないことでした。人を傷つけてしまったとき、それは同時に自分自身をも傷つけるのです。一体どうしたら元に立ち戻ることができるでしょうか。それがヤコブに一生つきまとって苦しめた苦悩だったのです。
そんな心の奥の罪意識に苦しむヤコブに神はあたかも祈りに応ずるかのように答えを与えたのでした。そしてその答えとは、べテルでの天の階段の時からヤボク川での格闘という神の約束によって張り渡された20年という時間を耐えて苦しみ続けることそして最後に自分のすべてをさらけ出して神と格闘するという道でした。
注目すべきはこの神の答えはヤコブを再び神と共にある故郷へ連れ戻すという救いの約束の強い力によって実行されたというしかありません。ヤコブの人生からの逃避行が始まったその最初にベテルで神は天の階段を下って彼に現れ神の地への再帰を約束しました。この神の約束こそつねにヤコブを逃避行から引き戻しついに人生を決着させたのでした。たった一人になって神と闘った出来事とはまさに自分自身を問うために死をかけ命がけで祈った出来事だったのです。
この祈りの格闘こそがヤコブを兄エサウに対面させたのです。この場面を読んで気付くでしょう。じつはここであのヤボクでの神との格闘が兄エサウを相手に再現されているのです。ヤコブはまるで隠れるように一団の一番後ろにいました。現れた400人の従者を連れた兄エサウを見たときヤコブは身もすくむほどだったでしょう。目の前に立った兄にヤコブは何と言ったでしょう。「ご主人様」それは神に付けられる「主(アドナイ)」と同じ言葉です。それをひれ伏して三度も言うではありませんか。そして「どうか」という強い意志がこもった懇願の言葉を「神の御顔のよう」な兄エサウに二度も訴えかけます。「どうかお納めください」、「どうかお進みください」。それはまるで格闘のような願いです。確かに最初に神と格闘したあの地は「ペヌエル」神の顔と名付けたはずでした。無論ヤコブはここで兄を神と偶像化しているのではありません。しかしヤコブは和解の格闘をしようとしているのです。神の顔に向かうようにエサウに自分のすべてをさらけ出して真正面から、かつて傷つけ修羅場に追いやった兄に身を投げ出して和解を懇願するのでした。それはヤコブの全力の格闘でした。まさに神とのあの格闘が今ここで人との和解の闘いとなっているのです。
不思議なのは兄エサウの寛大さです。エサウは恨み言ひとつも言わないでヤコブを迎え入れ共に行こうとします。「殺してやる」と叫んだあの時の怒るエサウの片りんもありません。これはどういうことでしょう。これはエサウの性格や人柄が寛大だったと描こうとしているのではありません。ヤコブが恐れを越えて疑いを越えてエサウのまえに身をさらけ出したとき、そこに返されるものは寛容の広さ、寛大さ以外にないと言うのです。
さて不思議にヤコブは兄と和解を成し遂げても兄のもとには行かず後々イスラエルの中心となるシケムに行きました。つまり別れたのです。和解とはただ一緒にいることではないのです。ヤコブは自分の行くべき地へと行きます。神の約束の地、そして神と契約した地カナンです。兄エサウはこの時死海のずっと南のセイル、エドムというところにおり、それは神の導きの地ではありません。
ヤコブは罪を犯す人間でした。この罪だらけの人間の一生を忘れず、闘いさえして導いて、ついに本当にあるべきところへと導いたのは神だったのです。
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