説教 20240407「真理、それは目前にある」
マタイによる福音書13章1~9節
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
今年アメリカ大リーグのドジャースに移籍した大谷翔平選手がついにホームラン第1号を打った時、仲間はヒマワリの種を大谷選手に向かって放って祝福しました。テレビで無数のヒマワリ種を浴びている大谷選手の顔が映し出されていました。古代では種は豊かに生え育つ生命を宿す源と考えられていました。天地創造で神は「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を」(創1章11節)と命じています。預言者ホセアは10章12節で「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ」と伝えます。詩編126編25節にも「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる」とあり、種蒔きは人々の生活の中心であり現実そのものでした。だからエレミヤは「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(4章3節)と捕囚の民に警告しました。
というように種を蒔くことは人々の日常で、撒く時にはどんなことに注意しなければならないか、間違った撒き方をしたらどんなことになるかなど、それはもう誰に言われるまでもなく解っていたことでしょう。ところがイエスは群衆がやって来た時、そんな常日頃解りきっているような日常習慣を喩えに使ってあえて群衆に向かって教えたのでした。後に弟子たちが不思議に思ってか「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と問うたのはそんな日常は当たり前のような話を教えるイエスが奇異に思えたからでしょう。
しかしこの「種蒔き」にはイエスから見るとけっして見過ごしにできない深く大きな意味と真理が隠されているのでした。喩えの最後に「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」と語られているところは古代の三倍から五倍という常識からすると絶対にありえない奇跡的な収穫率でそう言わざるを得ない神の国の真実をイエスは示そうとしたのではないでしょうか。
ところがこんな驚くような奇跡的真理が込められているというのに解せないのがイエスの態度です。つまりここでイエスは群衆に対して熱く語ってはいないことです。「なぜ、たとえで」と聞かざるを得ないイエスの群衆を突き離したような態度。気になるのは始めからイエスは湖の舟に乗って群衆を近寄らせず遠巻きに教えたのでした。弟子の問いに答える形でイエスはついにその真意を説明するのです。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。・・・だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と。種蒔きの種が道端に落ちたり石地にこぼれたり茨の藪にはまったりしたらどうなるか、そんなことはもう周知の群衆になぜ話すのか。それは彼らが理解しないためだと言うのです。預言者イザヤの「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と引用してまでそう言うのです。
それに対して弟子たちには「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と祝福します。そしてこの種蒔きの喩えをイエス自身解き明かして19節から「み言葉を悟らない人」、「艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人」、「世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人」と解説を加えられます。解説というよりも批判や非難のようにさえ感じます。この種蒔きの喩えは、イエスが弟子たちを派遣して神の国の到来と福音を伝えた後、それに悔い改めなかった人々や町々への非難と批判の続きだと言ってよいでしょう。「真理が目の前に来ているのに!」「神の国がイエスご自身の中にすでに到来しているのに!」人々は「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」「民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」とまで言われるのです。
それである学者はイエスのこの非難から人間の中には救われない人間もいる、救われる者がいれば神に棄てられる者もいると言うのですが、わたしは絶対にそうは考えません。救われる人間と救われない二種の人間のことをイエスは言おうとするのではありません。
「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」。この言葉にわたしはあの時の主イエスの一つの言葉を思わずにはおれません。それはこれです、ルカによる福音書23章34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。十字架の上の救い主を前に彼らは自分が何をしているのか 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない。目の前に「あなた自身の救いの真理」が起きようとしているのに理解できない。そんなあなたのために種は良い地に蒔かれる。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章14節)。
真理とは赦しがあるという現実です。あなたが知らなくても理解しなくてもそれを赦すあがないのキリストがあなたのために立っておられる出来事なのです。あなたが何であろうとその目前にあなたを赦し愛する祈りがなされています。
0コメント