説教 20240317「新しき日々への格闘」
創世記32章7-9
使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。サウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。
創世記32章23-31
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。
説教
聖書の中で最も魅力に富んだ人物を挙げよと言われたら、わたしは新約聖書ではイエス・キリストを除いたらパウロであると思います。使徒言行録は多くがパウロの伝道活動の記録ですし、ローマやコリントのキリスト教徒への手紙には彼の信仰をとおして熱っぽい人間性が生々しく表れています。旧約聖書で言うならまさにヤコブだと思います。アブラハムは伝説的な陰影の中に人間臭さが薄れ、ダビデは戦士や王としての光彩が常人を越えています。その点このヤコブは生身の人間そのもので、己れの如才無さに溺れてついに波乱の人生に突入するのですが最後には自分本来の生き方に戻らんとしてあがくような道を歩みます。でもそこに見せるゆがんだずるさと高慢さそして他人の内心を警戒しながらかすめ見る疑心暗鬼の心理はわたしたちの心をも揺すぶらずにはいません。
叔父ラバンのもとで20有余年を過ごしたヤコブでした。でも今この時、かつて誓約を交わした神の約束の言葉がいよいよ高く響いてくるのを感じずにはおれません。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28章15節)。
そしてヤコブはその神の約束に従ってラバンを棄て、二人の妻と共に故郷に帰ろうとするのでした。勿論ここでもヤコブはその狡猾さを大いに発揮し、ラバンの財産(羊の群れ)を大量にぶんどり、また妻ラケルまでも父ラバンの大切にしていた「守り神像」を秘かに盗み取って行くのです。こんなまさに「跳ぶ鳥、跡を濁す」がごとくやりたい放題やってその土地を逃げるように出るのですから、これはけっして「故郷に錦を飾る」というような晴れ晴れしい帰還では全然ありません。まさに「遁(とん)ずら」と言ってもいい醜態のヤコブのこと、同様に帰還先の故郷に向けても「喜び万感に溢れて」などとは到底言えない事情を抱え込んでいたのです。むしろ故郷に近づくほど拭っても拭いきれない危惧が暗雲のように広がりヤコブを包囲し恐れさせたのです。「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。サウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである」。様子見のために出した使いが兄エサウが400人もつれて迎えに来ると聞いて「これは兄の復讐か」とヤコブは震えあがる気持ちでした。
いよいよ新しい日々を迎えるというこの時になぜに心が怯え震え萎縮するのでしょう。再会が近づくほど惨めな迄恐れる人間の姿。
今や国境の地、ヨルダン川東の支流、その名も「切り裂く」を意味する急流ヤボク川を越えた時、ヤコブの脚はぴたりと止まって一歩も踏み出すことはできませんでした。妻、子ども、財産そのすべてを行かせた後、ひとりヤコブはその岸辺から離れることができませんでした。創世記はここから夜を迎え明けに至るまでのヤコブの身に起きた衝撃的な出来事を刻明に描きます。それは得も言われぬ不可思議な相手との格闘の出来事でした。挑んできた人格は「何者か」とか「その人」と呼ばれます。「その人」はやがて明け方に劣勢になります。勝てないと見た「その人」はヤコブの腿のつがいに打撃を与えて去ろうとする。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」という人に「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と優勢ながらもヤコブは何かを必死で要求します。するとその人は「お前の名は」と聞き、ヤコブがその名を答えるとその人は言います。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。さらにヤコブが格闘相手の名を聞くと「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福したのでした。この祝福を受けた時ついにヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付け」ます。戦った相手が神であったことがヤコブに解ったのです。
家族も財産ももう恐れる兄のもとへと送り出してしまい、ヤコブが孤立無援の一人になって始まったこの格闘。じつはそれこそはヤコブが後が無い土壇場に追い詰められて否応なく向かい合わざるを得なくなった神に命がけで祈った祈りではないかと思わざるをえません。はじめヤコブは格闘の相手が神だとは気づいていません。相手が誰ともわからずにとにかくぶつかり、押しまた引き、もがき、汗みどろになって、掴み合う。まさに命がけのその格闘はまるで祈りのように頭に浮かび上がってくるのです。一瞬ですがある情景が頭に浮かびました。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りの光景です。暗黒の向かうから掴みかかる相手はヤコブに問います、「お前の名は何という」と。それはこういう意味です。「あなたの人生は何だったか、どんな生き方をしてきたか」。たんに個人名を聞いてはいません。ヤコブという人間として世に生きてきた人生を問うのです。つまりヤコブ自身を。だからその人は、いや神は言うのです。「お前の名はもうヤコブ(かかとをつかむ者)ではなく、これからはイスラエル(神と闘った者)と呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。
じつに祝福とは名前が変えられたことでした。この世で「自分が自分が」と突き進んできた名前から神の名とつなげられた名前に。それは「これからは神と切っても切れない生き方をする」という名前です。
でもヤコブはどんな力でその人つまり神と組み打ち格闘したのでしょうか。祈ったのでしょうか。この祈りともいえる格闘を「力比べ」と考えてはなりません。ヤコブは恐れていました。これからのことに怖気づいていました。自慢する力のひとかけらもありません。むしろヤコブは弱っていました。逃げることもできない弱さの中に苦しんでいました。
わたしはこの格闘が、「何者かが・・」と始められていることに大きく心惹かれます。それは勿論「神」でしょう。でも「神」とも「神の使い」とも書かず「何者か」と表わすのは何故なのか。わたしはこの創世記記者があえて「何者か」と記すことで読むわたしたちに深い示唆を投げかけているのではと思わざるをえません。わたしはこの「何者か」はまさにヤコブ自身だったのではないかと考えます。ヤコブは自己自身と向かい合い対決したのです。そして自分自身を打ち負かさねばならなかった、生きられなかったのです。自分をすべて否定し克服しなければ道は開かれなかったのです。だから創世記は「お前は神と人と闘って勝ったから」とヤコブに言うのです。そして自分を否定しようとするとき人は弱くならざるをえません。むしろ弱さの中でこそ人は自己を否定し克服することそして悔い改めることができるのです。なぜなら自分のすべてをかなぐり捨て丸裸になり、まったく無力で弱い自分を直視しなければならないから。
しかしヤコブはこの弱さで闘ったのです。弱さでもがき、苦しみで格闘し、そして祈ったのです。弱さで喘ぎ、無力さでもがき、絶望で掴みかかりました。その弱さをぜんぶ「その人」に、神の前にさらけ出したのです。だから言うのです、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」。神と顔と顔とを合わせた!それは自分のすべてを弱さも傷みも恥も罪さえもさらけ出したということです。神殿から遠く離れたところからうなだれ、「胸を打って」祈った人のように、弱さも罪もさらけ出す、それが祈りです。ヤコブの新しい旅立ち、新しい日々へと向けた歩みは弱さや苦しみによって格闘のように祈ることから始まります。まさに祈りは格闘技なのでしょうか。
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