説教 20240303「愛の言葉が命を生む」

マタイによる福音書12章33-50

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 朝起きるごとにある問いに襲われます。脅されます。「おいお前、自分のしるしを持ってるか。何かできるのか。今日を過ごす課題はあるのか。」。「うん仕事がある、やりたいこともある、人に会う」。日々はそんなふうに過ぎていくのが大半かもしれません。でもなにか心が行き詰まった時、人とぶつかった時、今が嫌になった時、そんな問いが脅すように自分の中から聞こえます。「お前、自分のしるしはあるのか」と。

 イエスが教えていた時に、そんな問いがかけられました。規範を教える律法学者とみずから戒めに没入するファリサイ派でした。それはイエスが「木とその実」の喩えを語っていた時でした。だからこの「木とその実」喩えは神の福音の喩えというより彼ら律法学者やファリサイ派たちと論争するための喩えでした。なんとかしてイエスを悪霊側の神冒涜者として断罪しようとするファリサイ派たちの内心に渦巻く邪悪な思いから来る言葉をイエスは「悪い実」と呼ぶのです。はばかることなくイエスはファリサイ派たちに言います。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。陰湿な草葉の翳から突如人を襲う毒蛇の「蝮」のようだとファリサイ派たちをイエスは見ます。これはすでにイエス自身による喩えの具体的説明です。ファリサイ派は悪い木であり悪い実をつける。この喩えは「言葉」を問題にしています。「内なる心から出てくる」ものが「言葉」となります。何が「心にあふれる」何が「倉」から出てくるかは「言葉」に現れると言うのです。

 そこで「蝮の子ら」そして「悪い人間」と名指された律法学者とファリサイ派はイエスに神の「しるし」を見せよと詰め寄るのでした。イエスは答えて言います。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。それは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいる」という象徴的喩えでした。「三日三晩、大地の中にいる」はイエスが死に三日間墓に置かれることです。ここにイエスが律法学者、ファリサイ派との論争をとおして語った重要なメッセージを見ることができるのです。それはひとたび「死を背負った者こそ真に生きる」というメッセージなのです。死を背負ったヨナはニネベの人々を悔い改めさせ、ヨナにまさる人の子イエスは十字架の死を背負う神の救世主にほかならないと。「ヨナの説教を聞く」そして「ソロモンの知恵を聞く」という対の句があります。それがイエスの救いと癒しの「言葉を聞く」ことに繋がるのは言うまでもありません。

 その後、喩えは「汚れた霊」の話となります。「汚れた霊」は「汚れた言葉」です。これも前段の「心から言葉が出る」の論法に沿っています。しかし人の心から出た「汚れた言葉」はさらに生活全体を汚す悪循環が生まれると言うのです。「汚れた霊」は人の口から発せられると他の人間の間を獲物を求めて歩き回るが再びいちばん休みが得られるもとの家つまり語った本人に戻って来る。そして自分は清まった汚れはなくなったと安心している本人の心をさらに七つの悪霊(新約時代の内容は不明だが後世に憎悪、高慢、怠惰、情欲、食欲、貪欲、嫉妬と定義された。福音書にマグダラのマリアがイエスによって七つの悪霊を癒されたとある)で以前よりひどく汚し尽くす。つまり言葉だけでなく生活全体を罪に染めてしまう。

 これは律法学者やファリサイ派によって変えられた社会の悲惨な状況を表しています。「汚れた霊」とはじつは律法学者の「裁く言葉」です。裁く言葉は彼らの口から発せられてあらゆる人々、隣人を裁きまわる。しかし多くの人間を赦すことなく裁いて希望なく砂漠のように虚しい状態に貶めるのです。空き家になり掃除され整えられた家とは律法学者やファリサイ派たちのことです。自分たちだけ清まり汚れもなくなったと安心している律法学者やファリサイ派の教えにさらに全生活を汚す七つの悪霊が入り込んで彼らを罪に陥らせるのです。

 しかし最後にイエスが家族について言われる言葉がこの律法論争を終わらせるもっとも大切な言葉となりました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。

イエスはここである重要な律法を破っています。十戒の「父と母を敬え」です。イエスは血族を越えた「天の父の御心」の実践による繋がりこそイエスの家族だと言います。これによってイエスは血族という限界の中に留まる律法を越えるのです。律法学者やファリサイ派が教える律法や掟は排他的な「選民意識」の中に閉じ込められていました。そして律法の選民は人間を枠の中に統一します。そして律法は「しるしはあるか」と人間を問い詰め威嚇するのです。

 しかし「唯一のしるし」はヨナのしるしとイエスは言います。それはイエス・キリストの死を感謝のうちに背負う生き方です。イエス・キリストの十字架を背負うなら誰に言われるのでもなく自分から自由にイエス・キリストの十字架を背負えてしまうのです。なぜならわたしたちの弱さにはイエスが存在し、わたしたちの死にはわたしたちを背負うキリストが復活しているからです。そしてこれを実践し祈るところに力溢れてやまない「生きるしるし」があるとイエスは言うのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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