説教 20240218「世の荒波を駆けぬけて」

創世記30章25-34

 ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ」とラバンは言い、更に続けて、「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った。ヤコブは言った。「わたしがどんなにあなたのために尽くし、家畜の世話をしてきたかよくご存じのはずです。わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。しかし今のままでは、いつになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか。」「何をお前に支払えばよいのか」とラバンが尋ねると、ヤコブは答えた。「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう。今日、わたしはあなたの群れを全部見回って、その中から、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それをわたしの報酬にしてください。明日、あなたが来てわたしの報酬をよく調べれば、わたしの正しいことは証明されるでしょう。山羊の中にぶちとまだらでないものや、羊の中に黒みがかっていないものがあったら、わたしが盗んだものと見なして結構です。」ラバンは言った。「よろしい。お前の言うとおりにしよう。」

 ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。

 パワハラをするトップや上司がニュースで問題になっています。「おい給料ドロボー!」「オマエ、それでも人間か?」部下が口答えできないと分かって尚更かさにかかって非を責め立てる。まさに上から下への権力の横暴なのだが、哀れなことにこれはむしろ上に立つ人間が目下の人間に対してしかぶちまけられない自己承認欲求の典型である。つまり哀願でしかない。「よう、オレ様がエライ人間だってことをわかってくれよウ!」じつになんとも惨めな泣きすがりであり幼児が親に我を張っているのと変わらない。辛いのはこの上司が権力を盾に取ってしかも叱ることしかできないから、まるでこの人物の精神の脆弱さを見せつけられているようで、責められる人はかえって情けなく思えてしようがない。パワハラする人間は意外に孤独や虐めと闘って頑張って出世した人が多いという。でも残念なことに味方がいない。ヤコブは言った「しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった」。これがおじのラバンとの違い。雇い主ラバンは孤独の中で時が過ぎてすっかり変わる。ヤコブは人生いつも帰る場所があった。神との約束、誓いという場所が。

 ヤコブの一生は身内や親族との闘いに明け暮れるようなものでした。父を翻弄したあげく兄の殺意から逃げ出し、辿り着いた叔父ラバンとは報酬の駆け引きに身を費やします。結婚した二人の妻の間の諍(いさか)い問題。帰郷時は兄への不安。晩年寵児ヨセフへの溺愛から他の11人の息子たちの不和などなど。油断のならない表情や虎視眈々とした睨(にら)み合いが容易に想像できるほどに人間臭い関係がヤコブの人生から読み取れます。

 ラバンのもとで20年の時を過ごし、ついにヤコブは潮時を覚えました。もうこれ以上働いても叔父はそれに見合う報酬を出すまい。叔父にはもうヤコブ自身の働きに心配る気持ちはないと。ヤコブはすっかりラバンの心情を見抜いていました。腹を決めたヤコブはラバンに切り出します。「故郷に帰らせてください」と。この言葉の裏には二人の妻14年分に加え更に6年分の労働への報酬をアピールする意図も込められていると思えますが、自分をいいように酷使さえすれ、もはやヤコブに何のリスペクトも持たないラバンの人間性への批判や不満が代弁されていると言えるのです。ラバンはその人物描写からすると表向きは「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」(28節)と太っ腹で親切ですが内心は冷淡でケチそしてなによりも狡猾でした。ヤコブの取り分となるぶちや黒の家畜を潜かに取り除けてラバンの息子たちに与えてしまいます。ただヤコブもとうに心得たもので自分の知恵を働かせて白い家畜からも取り分のぶちやまだらなどの家畜だけが生まれるように策略を講じます。

 ただ「ぶちと白」というこの駆け引き物語ではラバンとヤコブの知恵比べあるいは似た者同士の狡猾さ争いにヤコブのほうが一枚も二枚も上わ手だったという説明が主題ではありません。この状況描写の中にラバンの内面描写が投影されているように見えます。「ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた」(35,36節)。「よろしい。お前の言うとおりにしよう」と言い放ったはなからそれを裏切る行動とその内心。嘘は相手を攻略する手段で何かを奪おうとする意図があります。でも嘘はもともとは心の隠蔽であり、見破られないように「歩いて三日かかるほどの距離」を取って自分の弱みを隠す防衛手段です。ラバンは実際は非常に気の小さい弱い精神の人間だったのではないでしょうか。31章1節以下に「ラバンの態度を見ると、確かに以前とは変わっていた」とあるように聖書はラバンを時の流れの中に大切なものを失っていく一過的で刹那の人間と描いています。これはまさに現実の人間像そのものといえるでしょう。誇大な嘘によって自分を正当化しながら他人傷つけ承服させようとする人間の姿です。

 ヤコブはたしかに狡猾という点ではラバンに並び立ち、ラバンと同じようにいやそれ以上の狡猾な策略を使ってまで人生を凌(しの)ぎます。それはイエスの言葉「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイによる福音書10章16節)の実践者と言えるような振る舞いです。なるほど狡猾な賢さにまみれたヤコブの人生です。でも人生を狡知によって切り開いて生きるヤコブは聖書によって否定されません。31章の7節でヤコブはこう告白します「しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった」。それはヤコブが自分の人生の始まりと目的を同じひとつの「神への誓願」「約束」によって生きたからでした。13節に神はこう言います「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と。

 とはいえ、この長い変転する人生のヤコブにわたしはなにかしら心休まらぬ哀愁ただよう漂流感を覚えないではおれません。じっさいに父のカナンから逃亡して叔父のハランに、そして再び兄のカナンに帰郷。ところが飢饉によりさらに息子ヨセフのエジプトへと移り住みます。かつてあれほど狡知に長けたヤコブは振り回されるように人生を変転します。かつてアブラハムは約束の地への道を「さすらいの旅」と言いました。申命記にもイスラエル人のことを「(さすらいの一アラムびと)」(「55年訳」申命記26章5節)と呼んでいます。これは何を意味するのでしょうか。それはむしろわたしたちの人生がどんな生き方であってもよいことを意味するのです。何をしても何処へ行ってもどのように生きても、狡知だろうと愚鈍だろうと生きることがゆるされる。それは神との誓願すなわち約束に始めと終わりを繋がれていればどんな生き方もゆるされるということなのです。神がわたしの人生の始めと終わりを知っているなら、あらゆる教えの戒め、定め、道徳の訓戒、血族の繋ぎ止め、教育の模範、人間美化、社会的賞賛、権威的懲罰、人々の後ろ指から自分をいっさい解き放って、生きることがゆるされているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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