説教 20240107「今は救いの時、助けの場」

 マタイによる福音書12章1~21

 「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。

 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 最近はテレビを見る人が少なくなったと言います。若い人はインターネットで娯楽を観ているそうです。テレビが黄金時代だった時に絶大な人気を博したドラマがありました。それは『水戸黄門』そして『大岡越前』でした。どちらも時代劇ですがもっと共通した特徴があります。それは主人公がドラマ前半ではその正体を隠して民衆の中や悪人の前に登場することです。そして後半のクライマックスではついに正体を明かし、「この印籠が眼に入らぬか、このお方を誰と心得る!」とか「やいやいやい、この桜の刺青まさか知らねえとは言わせねえぜ」と大啖呵を切り、臍(ほぞ)を噛む悪人をついに退治するという展開に茶の間はこぞって湧いたものでした。

 この娯楽ドラマと一緒にすることはできませんが、主イエスはやはりユダヤの社会に現れ、人々と共に歩むにしたがってメシアとしての自分の正体を明かす道を行かねばなりませんでした。イエスはしだいに「メシア、救い主」であることを人々に垣間見せ、メシアという「存在意義」を生涯と行動に具体化して行く道を歩みました。マタイによる福音書はクリスマスでは天使からのメシア宣言がありましたがイエスの幼少時代のことは書いていません。しかしこのメシアという「存在意義」がイエスにとってはっきり意識されたのが、洗礼者ヨハネから受洗でした。「これはわたしの愛する子」という天の声にイエスは自分が神の子であることを深く自覚されたにちがいありません。それはご自分の魂の内面的な闘いとなりイエスは悪魔との対決へと導かれたのでした。しかしイエスは「インマヌエル」の主でした。独り荒野での修行でただ強いメシアになることは目的ではありません。イエスはすぐに人々の前に現れ、山上に貧しい人や悲しむ人、義と平和に飢え渇く人々を招き語りかけたのでした。そして山上から呼びかけ神の福音を告げ、ここを出発点に主イエスは人々の中に向かって救世主メシアとして行動するのでした。それは身体であれ心であれ病む人や不自由を背負った人々、行き場を失くした人々に何ものにも代え難い恵みの癒しを与えることでした。そして「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われるように、さらに癒しを求める人々は想定を越えて多く、主イエスは神の国の福音と癒しのため弟子たちを派遣されました。

 しかし思わぬ結果が出たのです。意外にも人々の中にはこの福音と癒しを受け入れなかった者も多かったのでした。神の国の到来を願い焦がれる人々がイエスを歓迎する一方、イエスに疑いを抱きあるいは拒絶する人々もいたのでした。それは悔い改めなかった町々として挙げられているコラジン、ベトサイダ、カファルナウムですが、よく見るとそれは主イエスの働きの地元ではないですか。主イエスが福音を伝え癒しをされた後、人々は答えを出したのです。神の国を受け入れず癒しも届かない人間がいると。

 そしてそれまでの癒しの働きの後についに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られたのでした。疲れた人、弱き人を目の当たりにし愛と恵みに心溢れる主の言葉です。それこそは主イエスが、最初になされた癒しと福音を向けたすべての人間に語りかけられた招きの言葉であったのです。マタイはこうして主イエスの活動の前半を区切ります。

 そして12章から別の展開が新しく始まります。その特徴は2節、14節、24節の記述に表れています。「ファリサイ派の人々」です。論争が始まるのです。それはイエスを陥れるものにほかなりません。まるで段落ごと場面ごとに「ファリサイ派の人々」が現れるではありませんか。そのたびに彼らはイエスに食って掛かるように質問や非難を浴びせ、ついにイエスを「殺す」ことさえ相談し合ったのでした。いったん13章の『喩え話』と14章のヨハネが殺された後の逃れた地での5千人の食事を挟んで15章以後もこのファリサイ派との論争は続いていきます。ファリサイ派の非難はイエスや弟子たちがユダヤ伝来の律法や掟を破っているということでした。「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と。安息日は十戒にあるように聖別されるべき日で労働が禁じられました。麦の穂を摘むのは作業と決められていたのです。それに対しイエスはダビデが神殿で祭司以外食べてはいけないパンを食べたことを挙げ反論されました。また安息日の会堂にいた手の不自由な人をめぐってファリサイ派イエスを試そうとします。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。治さないと言えば隣人愛を無視することになる、治すと言えば治療は労働行為と批判され律法やぶりとなる。これに対してイエスはごく日常の行為を示して論破されます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。それは当然の日常行為でした。ファリサイ派の人でさえしている生活行為です。イエスはここにメシアの真の姿を現わされたのでした。それは律法の完成者の姿です。「憐みと愛」こそが神の律法の本質であることをあからさまに教えられます。律法は自由な愛と憐みによってこそ完成される。

 この安息日違反の標的にされた時、イエスはいよいよメシアとしての極限に立たされたのでした。なぜなら「お前は何の権利で律法を破るか。神の子なのか」と問うファリサイ派に、その通り、然りと言えば捕えられ死刑を免れない。しかしイエスにとって自身がメシアであることはいよいよ悲しみをもって心に明確に自覚すべきことであったのです。イエスはメシアとして闘わざるを得ず、実際にみずから神の子メシアとして宣言をもってファリサイ派を破られたのです。イエスはこの論争の経過をつうじて、さらに神の子メシアの謂わば「正体」を痛みをもって告白せざるを得なくなっていったのです。水戸黄門や大岡越前は正体を明らかにしたとき、大きな力を振るって悪者を成敗します。でもイエスは自分が救い主メシアと自覚されるとき悲しみと貧しさに目を向けようとされるのです。

 何故イエスは非難の標的とされるメシアであることをもってあえて闘われたのでしょうか。それが18節のイザヤの預言に答えられています。「異邦人に正義」という。「大通りにはいない」という。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」という。それらすべての言葉は言います。「あなたのいる場所だよ、あなたが生きてるその今だよ。イエスは神の子でメシアでいようとされるよ。神殿じゃない。行列の中じゃない。自分のいるところから動けなくなっているあなたのいるそこを救ってくださる。それがメシアのいてくださるところだ」と言います。

 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」。これはイエスが洗礼を受けられた時に天からかけられた言葉と同じです。それはメシアの任命の言葉です。そのメシアは神殿にいません。祭壇にもいません。「神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば」神の子が救い主メシアがいられる場所が見えてきます。憐れみが求められる場所、愛が必要とされる場所、悲しみの場所、今ここではないでしょうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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