説教 20231231「神の愛に奮い立つ」

創世記7章6-8

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。

 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

 ローマの信徒への手紙8章33-35

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

 ある心理学の研修ツアーでスイスのチューリヒに言った時、講師からこんな夢の話がされました。相談者の一人がとても印象的な夢を見てどうしても心に残っているというのです。その夢とはその人が「雑巾」になっていて洗い場らしい所の壁のフックにずーっとぶら下げれらているというものでした。「雑巾」の自分はなんとか動こうとするけれども、いかんせん釘のようなフックに引っ掛けられて居てまったく動くことができない。ただぶら下げられているばかりか、自分をよく見ると薄黒くボロボロに擦り切れて破れまみれで、なんだか臭い匂いさえ漂ってくる。自分がたまらなく惨めに思えて必死でもがくも少しも動けないからますます悲しくなる。ところがそこに突然風が吹いて「雑巾」の自分は吹き飛ばされ流しに落ちると、水の流れにどんどん流されていつの間にか大海に浮かんでいる。そこはどこまでも海あり空ありで目を開けておれないほど眩いところだった、というのです。夢はそこまでだったのですが講師はわたしたちに「後はそれぞれご解釈を」と言って話を区切られました。

 この夢には確かに一定の説明解釈は要らないでしょう。これを聞いて、それを自分の心に思い浮かべ、なんだか嫌な感じとかひょっとして自分もとか自分なりに受けとめれば、おのずと得るものが得られると思います。それが重要です。聖霊によるイエス・キリストの受胎を知らされマリヤと一緒になったヨセフも自分の夢を神の言葉として受け止めそして応答したのでした。

 心はどうしたら動くことができるでしょうか。普段、わたしたちの在りようもあの「ぶら下がった雑巾」と同じです。周りにある不正や暴力に目を向けることができず、世界に泣き叫ぶ悲鳴を聞かず、ごく身近な弱い隣人に手を差し伸べず、なによりも自分自身の心の呻きを無視し続けている。それこそ「雑巾」のような在りようと言えないでしょうか。それは確信や平安のない生き方です。自分への自信が無く、だから他人を判断基準としてします。他人のすることが自分の幸福や不幸、願望や嫌悪感を決めてしまう。最後は他者の奴隷のようになって精魂を使い果たすのです。

 しかし聖書は言います。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。神は民すなわち人間を選んだ。それは民であるわたしたちがのっぴきならない「神の関係者」とされたことです。「聖なる民」はよく「分離された民」と考えられなにか他民族より優れたなどの差別的な意味をつけられます。そうではありません。「宝の民」とも言っていますように、それは神の「とっておきで殊更に愛する民」ということ、つまり神にとって失ってはならない民です。なにがなんでも人間を愛する神の愛の関係性をいうのです。

 ただ聖書はこの神の愛の関係の理由を民や人間の優位性や力の大きさに置きません。神は何故彼らを選ばれたのか。こう言います「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。試験をして良い点を取った者の上からの順番で「優位者」を神は選ばない。かえって「どの民よりも貧弱」な人間と神は関係を持とうとされるのです。目を引くのは「エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から」と言う言葉です。その頃、世界で最も裕福な国はエジプトでした。そのファラオと言う地上の支配者の繁栄の国は「奴隷の家」と言うのです。大国を奴隷の家と言うのです。事実奴隷制がありました。しかしこの奴隷まさに「雑巾」のようなわたしたちをご自分の宝として呼び出されるのです。「神が人を選ぶ」とは「呼び出す」や「招く」と言ってよいのです。それこそ神がわたしたち人間との関係を愛し創造しようとされる行いです。それは当然、人を立ち上がらせ、歩かせ、神へと向かわせるのです。神が絶対的にわたしたちを愛し必要とされる。その時わたしたちは心が動いて「はい」と応答するのです。

 これは「悔い改め」と言ってよいでしょう。悔い改めは神に救い出されて立ち上がり、導かれることです。悔い改めは泣き崩れ這いつくばって赦しを請うことではありません。立ち上がり神が呼ぶ招きへと歩き出すことです。

 このわたしたちと神の関係性を新約聖書でパウロは言います。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」と。「だれが」を繰り返して3度も言います。「だれがわたしたちを罪に定める」。「キリストの愛からわたしたちを引き離す」。そう、確かにわたしたちはいつも訴えられる不安を抱いている。それは関係が失われる不安、関係が断ち切られる不安です。いつも罪人として突き離される恐れに怖気づき、いつも神から引き離される瀬戸際にある。訴えや罪や引き離しに怯えこんで、だからこそ動けないままでいるのです。でもパウロが「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と言う時、それは神が結ぼうとされるわたしたちとの関係に向かう「新しい躍動」を言い表しているのです。このキリストの復活とは人間の解放のことです。キリストの復活は人間自身の復活です。神との関係はわたしたち人間の復活として現れます。人間が神の愛ゆえに復活してはじめてキリストは復活するのです。キリストの復活は人間に現れるのです。だからわたしたちが復活して立ち上がるのはキリストがわたしたち人間のうちに立ち上がっているからです。

 キリストの死はわたしたちの罪を根底から赦し拭い去ります。キリストが背負われた罪をわたしたちがもう背負うことはできない。わたしたちは解放されて立ち上がり、歩き出すしかありません。「人を義としてくださるのは神」と言います。「義」とは「正しさ」というより「解放」また「自由」です。「正しさ」は正しくない者を拒絶し「解放と自由」は罪を赦す。神との関係の中で罪人は世界を心から歩けます。キリストはわたしたちと共にあり、「そのまま歩きなさい」と言われるのです。

 キリストが命を賭して創造された神との失われることのない関係、わたしたちはここから歩みだすしかありません。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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