説教 20231217マタイによる福音書1章18~25節 (新約 p.1) ローマの信徒への手紙12章15節 (新約 p.363)

「  神、われらと共にいます  」

   ― わたしにゆだねられたメシア ―

 救世主イエス・キリストの誕生に告げられたメッセージは「インマヌエル」(神は我々と共におられる)でした。「共におられる神」を想像するときわたしたちはどこかわたしたちを助ける神を想像します。でも果たしてそれだけでしょうか。

 もし今、誰かが突然あなたを訪ねてきて助けてほしい、いっしょに家に入れてほしいと問いかけたらどうしますか。

 クリスマス、キリストの降誕の日。インマヌエルはあなたにそう問いかける日です。あなたに迫り、あなたの目の前に来て、あなたの生き方を揺すぶる日となるのです。クリスマスは自分の身ひとつ動かせない小さな赤子として現れ、あなたの支え、助け、力無くしてはその日すら生きることのできない赤子となって、あなたの生きかたを問う日となるのです。

 クリスマスの知らせは一人の赤子の誕生を知らせる天使の言葉から始まりました。ただ、ルカ福音書では未婚の乙女マリアに天使ガブリエルが姿を現し、世を救うメシアが彼女の胎をとおして生まれると伝え、マリアは大いに戸惑わざるをえませんでした。さらにこのマタイ福音書にいたってはメシアを胎内に身重となったマリアとの結婚に不安を抱くヨセフに、「恐れずに」マリアを迎え入れるようにと説き進めるのでした。

 そう、このキリスト降誕は母となるマリアにとっては女性として信じ受け入れ難い出来事でしかなく、その夫ヨセフにとっては世間的にもとんでもない状況として彼を問いかけたのでした。

 しかし、そのような人間たちの戸惑いにもかかわらず聖書はこのキリスト降誕が「聖霊」によってなされる神の出来事であると言い、また預言者によって語られた神の救いの真実の実現であると証言するのです。神の救いは「インマヌエル」という名前で明らかにされます。「インマヌエル」それはユダヤの言葉で「神は我々と共におられる」。イザヤの預言7章14節にあるとおりの言葉です。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。

でも、たったこの一言の預言が今や実現してわたしたち人間の救いを成し遂げようとする時、それはむしろわたしたちのあり方を根底から揺るがし、人生を深く問い詰めることになるのです。

 生物学の定説で、人間は他の動物よりも一年分早く出産され誕生すると言われます。人間以外の哺乳類動物たとえば鹿などが出産した時、産まれた小鹿はものの数十分で立ち上がりヒョコヒョコと歩き始めます。他の動物も牛であれ馬であれアフリカのライオンやキリンでもそうです。産み落とされて寝てばかりでは他の肉食動物の餌食となってしまいます。ところが人間の新生児は身動きできず、約一年近く立ち上がることすらできません。つまり一年分早く胎外に出されるのです。これを「生理的早産」(A.ポルトマン)と言うそうです。つまり人間は一年分未熟児で生まれるのです。早く生まれた未熟な一年はどうなるでしょう。それは当然、大人によって手をかけられ、声をかけられて育てられゆくしかありません。これが人間の特徴を形成するというのです。すなわち声を出すこと聞くこと、皮膚の接触、見つめ合い、言葉の交流、与え与えられることという肉体の成長ばかりでなく人格交流、心の成長もこの胎外期に行われるのです。

 神のひとり子イエス・キリストも正しくそうでした。神は小さな赤子となられました。自分一人では生きていけない乳児となられました。クリスマス、生きるも死ぬもその命のすべてをマリアとヨセフという人間に委ねられたのでした。クリスマスは力ある神が来られたというよりも、何もできない無力な存在がわたしたち人間に手渡された出来事なのでした。そのメシアは動かず語らず、自分を人間にされるがまま任されるしかありませんでした。

 そしてこのかぼそい赤子のメシアをマリアとヨセフは彼らの人生を変更して受け止めねばならなかったのでした。けっしてその子を自分たちの「愛の結晶」のように設けたのではありません。ある人々は自分たちの人生のために子どもをもうけるでしょう。一族拡大のためにあるいは「老後」のために。夫婦の愛の徴として。イエス・キリストはそのどれでもありませんでした。

 そうではなく神のキリストはマリアにヨセフに人生を問いかけるように「与え」られたのでした。いやおうなく人間に「さあ、あなたはこの命をどうする」と問うように与えられたのでした。これこそが「インマヌエル」の本当の意味なのです。このインマヌエル、「神は我々と共におられる」を聞いて、もしわたしたちがただ「神はわたしの味方だ」とか「神は我々の力だ」とだけ考えるなら、それは自分本位な間違いなのです。

 「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」とは、わたしたちが隣人と生きることなのです。「共にある」とは「隣人となる」ことです。かつて「私の隣り人とは誰のことですか」とある人が聞きました。イエスは彼が思いもしなかったサマリア人の行いを示して言ったのです。「あなたも行って、同じようにしなさい」。「行って」。これが「共にある」インマヌエルの核心です。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。それだけでよいのです。わたしたちを助けに来られる神ばかりが「インマヌエル」の意味ではありません。わたしたちが、赤子のように動けず話せず立ち上がれない人々のもとに行き、心を共にすることが「インマヌエル」なのです。

 神の子イエス・キリストがわたしたちのところにその命をゆだねられた「インマヌエル」のように、わたしたちも隣り人へと行くように教えられているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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