説教 20231203マタイによる福音書1章1-16、フィリピの信徒への手紙2章6-8
「 神はここに来た 」
― 神よ、このわたしでいいのですか ―
やがてクリスマス、「イエス・キリストの降誕」を迎えようとしています。クリスマスは神がこの世へと来られ人となられた出来事をあらわす日です。神が人となられた。これがどれほど驚くべきことか、それは世界や自然界の異変の中でなくわたしたちの生活の中に何がなされたかを見ることで真にわかるのです。
このマタイによる福音書の始まりに書かれた系図に違和感を覚えないでしょうか。この福音書はユダヤ教文化に生きるアンテオキア教会のキリスト教徒のために書かれたゆえ、系図をもって救い主イエス・キリストの出自を正統化しようとするのですが、この系図は系図としてみずから破綻しています。この破綻は系図中にあらわれる「によって」で挿入される人物たち、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻を見ると明らかになります。タマルはユダの息子の嫁です。ラハブは異民族の遊女、ルツはモアブ人、ウリヤはダビデの不義による女性です。そして極め付きは「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」の下りです。他は(父側が)「もうけた」のにここだけが「このマリアから」と書かれます。後の物語に続くとおりヨセフがイエスを「もうけ」てはいないのです。
しかしこれこそ注目すべきことです。このメシアの由緒ある正統性をあらわそうとする「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」がじつはこうした人間の赤裸々な現実を含みこんでいることです。まさに救い主の系図はその中に救われざる人々を繋ぎ入れているのです。このようなあえて破綻する系図こそクリスマスの幕開けにもっともふさわしい口上書きと言えるでしょう。それはたんなる系図の中での破綻ではありません。はっきり言えば「神ご自身の破綻」、「全能者みずからの破綻」、「支配者の破綻」というべきです。この神の破綻にこそクリスマスを知る要(かなめ)があると言えるでしょう。
そしてこのクリスマスの核心をもっとも良くあらわした聖書の言葉こそフィリピの信徒への手紙2章の16節以下と言ってよいでしょう。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
神の独り子であるイエスは神とまったく同じ存在、父なる神と変わりがないにもかかわらず、神であることにしがみつこうとせず、神である自分を打ち棄て、人に仕える低き人間となり、最後は呪われるような死に方を背負ってまでも従順でした。
この聖句でも神は破綻します。ここで神の子キリストは自身が「神の身分であること」や「神と等しい者」であることを死守することを嫌われたのです。神が神であることを厭われた。「固執しようと」と訳されているところの原語は「アルパグモン」です。それは強奪した獲物を死にもの狂いで掴んで離さないという意味です。イエス・キリストは自分が「神と等しくある」ことを「これだけは譲れないぞ」などという「独占的権利」や「自分のアイデンティティ(拠り所)」のように考えなかった。「神である」ことを自身の「存在理由」とはしなかったのです。これもまたクリスマスが神の破綻であることを教えているのです。
しかしこの神の破綻を身をもって知った人間がいました。それこそマリアでした。マリアは身をもって「神の自己破綻」を大いなる畏れの中で知ったのです。「マリアの讃歌」でいいます。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカによる福音書1章47~49節)。
マリアは何ゆえに神にむけて「偉大な」と告白するのでしょう。それは彼女が神の広大無辺な存在を見たからではない。永遠にわたる全能力の強大さを見たからではない。神を「マグニフィカート(大いなる方として仰ぐ)」と讃え、「偉大な」と言うのは永遠に大いなる神がいとも小さくなられたことをマリアが知ったからでした。神が溢れる全能の力を全被造物や全世界に向けるのでなく一人の小さい「はしため」だけを選んでそこに惜しみなく注がれたからです。その無限の存在をけし粒にも満たない一人の人間マリヤへと向け、共にあろうとされたからでした。全能の神が無限に小さくなられた。これをこそマリアは「偉大」と讃えないではおれなかったのでした。それはまた信じる者の生き方と言えましょう。この世の人々は「大いなるもの」を「偉大」とたたえます。しかしキリスト者は神がわたしたちのために小さくなられたこと、低きに来られたこと、仕えるものとなられたことに無限の偉大さを見ずにはおれないのです。神はその低いところに仕えるところにこのわたしたちを見つけられたのです。だからわたしたちはマリアと同じように「神よ、主よ、このわたしでいいのですか。限りない永遠の救いをみわざをこの取るに足らないわたしに始められて、いいのですか」と歌わざるをえないでしょう。
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