説教 20231119マタイよる福音書25章40節

「 靴屋のマルチン 」

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 クリスマスの物語について神学者カールバルトはこんな表題をつけました。「神は小さくなられ た」と。そして次のように言います。

 「主の御使はベツレヘムの方角を指さして言った、『あなたがたたのために、きょう救い主がお生まれになった』、と。あなたがたのためにと、神はただ、神であることにとどまらず、人となろうとされたのである。あなたがたのために、あなたがたが栄誉を受けるために、神は小さくなられたのである。あなたがたのために、神はあなたがたを立て、御自身に引き上げようと、自らを引き渡されたのである。そのことは神には、何の益にもならないだろう。神は、そうする必要はなかったろう。ただ、神は、あなたがたのために、このわたしたちのために、この驚くべきことをされたのである。したがって、クリスマスの出来事は、私たちに向かって、私たちについて、私たちのために起こった出来事なのである」。

 この「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というキリストの言葉は文豪トルストイの心を動かし、有名な『靴屋のマルチン』という短編小説を書かせました。その時トルストイはこの物語の「愛あるところ神います」というテーマをつけました。

 愛する妻を失って家に閉じこもり教会からも遠ざかってしまった孤独なマルチンにキリストがクリスマスに訪ねて来ることを約束します。でもその当日、マルチンのまわりにいろいろな事件が起こりそのたびに人を世話します。泥棒を働いた少年、乳飲み子を抱えた貧しい母親、今にも倒れそうな老人。マルチンはキリストをもてなすために用意した食事をぜんぶ彼らに与えてしまいます。そうして一日も過ぎ、約束のキリストが来なかったことにいぶかりながら眠ったところに夢でキリストが現れマルチンに昼間の少年や母親や老人がキリスト自身だったことを明かすのでした。

 この靴屋のマルチンにトルストイが託そうとしたことは、良いことをしなさい、そうすれば神に誉められますよということでないことはわかるでしょう。マルチンは自分の日々が本当の生き方じゃないと思っていたのです。孤独に心はうずくまり、教会で祈りもできない。ずいぶん信仰から離れてしまった。でも心は渇いてしようがない。キリストが訪ねるよと言うのなら、それこそ一生懸命その準備をする。こんな自分にキリストは来るだろうか。

 約束の日、キリストを迎える日だというのに日常が騒がしい。まわりに起こる出来事が自分をすり減らしていく。子どもたちがしえたげられ、家庭がないがしろにされ、老人は見棄てられる。キリストには申し訳ないが彼らに心が向いてしまう。教会どころではない。やっぱりわたしの生き方は不十分。

 しかし、そんなキリストにも教会にも無関係な日々の現実にキリストは現れられた。マルチン、わたしはその人たちだよ。罪を犯して世間から憎まれる少年、みすぼらしく人々からそっぽを向かれる貧者、あとは死ぬことだけの老人。みんな人々から要らないと、掃いて捨てられそうな人間こそわたしキリストだよ。そう言ってキリストは現れるのです。

 でももうひとつのことがある。クリスマスは「あなたがたのため」と神がなされることです。クリスマスは神のためになされたことではないのです。ただ、わたしたちが救われ、高められ、喜ばれ、輝く者になるために、神が小さくなられた出来事なのです。この小さき神はどこにおられるか。

 トルストイは示します。あなたのまわりに。目の前に。窓から見えるそこに。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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