説教 20231105ヨハネによる福音書19章25~27節
「 十字架のもとの家族 」
― 信頼によってつなげられる家族 ―
キリスト教は人の死後をどのように考えているかを見てみますと、よく最後の裁きということが言われます。とくに中世やルネサンス時代の絵画芸術には神が善人を天国に迎え入れ悪人を黄泉の世界に突き落とす「最後の審判」の絵が描かれたり、またダンテと言う作家が『神曲』という本で生きていた時の罪のつぐないのために「煉獄」という天国への前段階の世界で苦しみの刑を受けねばならないと描いています。仏教でも黄泉の入り口で閻魔大王が死者を鑑定し業の深い者は地獄に送り心の清い者は極楽へ導くというように「裁き」が人間の死に付きまとって、死は非常に大きな恐怖として受けとめられるようです。
しかしもともとの聖書とくにイエス・キリストの言葉に帰って聞くと意外とそうではないことが言われます。ある時イエスは人々から人間が死後復活してからどんな人間関係や家族関係になるのか、たとえば生前に死別再婚して二人の結婚相手を持ったた人の本当の配偶者は誰になるのかと聞かれた時、こう言いました、「(人は死後の)復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:30)。
人は死後復活したら天使のようになる。天使とは神に従うエンジェルであり、その真の役割は神の言葉を伝えることです。誇張していえば天使は神の言葉をいつも人に話しかけるのです。神のみ心を携えて他の人、隣人にふさわしい言葉をかけてあげる存在です。励ましの言葉、慰めの言葉、適切な指示、癒しの言葉、一人一人に一番必要な言葉をかけるのです。天使とは隣人のよき理解者ともいえるでしょう。こんな天使のように、人は死後に天国でなるのだとイエス・キリストは言っています。
場面はゴルゴタの死刑場です。イエス・キリストはわたしたち人間の重い罪を背負って十字架にかかられました。十字架の上で神から遠ざけられながら激しい叫びで父なる神に呼びかけました。その時、イエス・キリストのもとに何人かの人々がたたずんでいたとヨハネによる福音書は書いています。イエス自身の母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻でやはりマリアという名の女性、またよく知られたマグダラのマリア、彼女はガリラヤのマグダラと言う村の出身でイエスに癒されてからずっと従って来たのでした。この4人の女性の他にもう一人「愛する弟子」と書いてある弟子がいました。これはおそらく12人の弟子の中でもっとも若くいつもイエスの隣りにいたヨハネだったと思われます。他の男の弟子たちが皆姿をくらましてしまったのに、この5人は逃げることなく死にゆくイエス・キリストの十字架のもとを離れずにいました。
この十字架のもとに集った人間に向かってキリストはこう始められたのでした。
『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った』(26、27節)。
おそらく夫のヨセフをすでに失い寡婦となった母マリアをおもんぱかっての言葉だったとも言えますが、同時にそこにたたずむ愛する弟子に母マリアを託したと言えましょう。
ここにキリストは真実の家族の絆をつくられたのでした。死を背負ったイエスはそれまでバラバラであった人々に絆を与え家族の結びつきを形作られたのでした。キリスト教が見る死の意味はここにあります。人の死は人のつながりをそして家族を見つめさせます。死を背負ったキリストを見上げその言葉を聞く時、今生きるわたしたちは互いに大切にし合う家族となります。
かつてイエス・キリストは言われました「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12章49、50節)。「だれでも」というのは「どんな生き方をするひとでも」といえます。「どんなに遠くにいる人」、「どんなに違う人」ともいえましょう。そんなそれぞれ違う生き方をしている者どうしが家族のようなつながり、支え合いと助け合い、励まし合いになるのです。
家族にとっていちばん大切なことが何なのか、ここに言われています。それはどんなに互いに違う者どうしでも言葉を聞き合うということです。人の言葉をだいじにする、受けとめることです。
同じように今、わたしたちも亡くなった家族の前に立っています。故人の方々もまさにキリストの言われたように天使のようにわたしたちに語っているのではないでしょうか。「互いに、重んじ合い、支え合って生きなさい」と。
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