説教 20231015創世記29章16-30

「家族を背負って人生をつくる」

   ― あとがない時こそ人は生きる ―

 先日、将棋タイトル八冠を達成した藤井聡太さんの会見がありましたね。どんな話があるかと見ていましたが、藤井さんはいつものごとくボソボソと喋り質問にも静かに答えていました。ただ成程と思ったのは「平常心を大切にしています」というのとこれからの目標はという質問に対して「面白い将棋をしたい」と答えていたことです。なんだかオットリとして駒の一手一手を楽しみながら打つのかなと想像するのですが、どうもそうではないようです。その杉本師匠さんが言ってることですが、藤井さんは他の棋士たちの対局を見るときでもまるで自分の戦いかのように真剣に読むといいます。師匠によると藤井さんは「打ち歩詰め」といって「相手の駒を呼び込めるだけ呼び込んで、見た目には形勢不利と見せながら、その実、相手方にもう打つ手のない状況をつくり出す」(杉本)戦いをするそうです。普通なら敵の駒は自分の近くに近づけないように避けるところを逆に歩を打って敵をおびき寄せる。「それは恐怖心との戦いを伴う、非常にストレスフルな」戦いだといいます。でも「相手が見えず襲いかかられる恐怖におびえるより、接近して押さえて、噛まれなければかえって安全」(杉本)というのです。言ってみれば藤井聡太棋士はまさにギリギリのところでスリル満点の将棋を戦っているのです。だからそれを「面白い将棋」と言うのでしょう。

 前箇所ヤコブが家を逃げ叔父ラバンの家へと孤独の旅に出、ベテルと名付ける場所に来たとき、天からの階段の下で主なる神の言葉を受けました。

 「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28章15)。

 今や想像もつかない地へと旅立つヤコブに主なる神は「どこへ行っても」と言ってこれから始まる測りがたいヤコブの人生にいつも「伴う」ことを約束するのでした。そしてこの「どこに」という言葉には、ヤコブが背負うであろう「ギリギリ」の人生そしてまさに自分の身に抗うことのできない重荷や困難を引き寄せて生きることが示されているといえるのです。

 ここでの聖書は創世記29章16から30節ですが、幾つかの注解書では29章から31章を一括してヤコブの波乱の人生を説明しています。これ以後にもヤコブの物語はありますが、もっともヤコブらしく立ち回る姿はその3章分によく表れています。その一端を示す象徴的出来事としてこの記事を見れましょう。

 29章から31章は4部分の出来事を描いています。第1(29章1~14節)はラバン家への到着と次女ラケルへの一目惚れの場面です。この辺からもうヤコブの心は全開です。その地の羊の放牧地に着いたヤコブはそこでラケルに出会います。他の羊飼いからラバンの娘ラケルのことを聞いたのでしょう。ラケルの羊に水を飲ませるために通常3人が動かしていた井戸の重い石の蓋を一人で跳ね除けて感涙にむせんで彼女に接吻さえするのです。そうして叔父のラバンとの出会いとなります。

 第2部分(29章15から30節)はすぐにラバン家での労働とその報酬の契約の話が始まります。「身内」じゃないからただ働きはさせないと言います。ただで働くのは奴隷で、多少の賃料は下僕や羊飼いに払われます。そこで身内ヤコブが報酬として要求したものがラバン家の娘と結婚することでした。そうすれば7年働きますと。当時は女性を妻とするために買うという風習がありました。奴隷としてではありません。ヤコブはラケルが望みであったのですが、7年の働きの後、父ラバンはそれを知りつつも夜に妹ラケルでなく姉のレアのところに連れて行きレアを娶(めと)らせてしまいます。「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた」と書いてありますが、それとなく妹ラケルの美しさを印象付けています。一説にはラケルの目が優しいというのは目が弱かったという意味があるということです。朝になって相手が違うと気付いたヤコブはすぐにラバンに文句を言います。「なぜ、わたしをだましたのですか」。しかし血は争えないものヤコブがヤコブならその叔父ラバンも裏をかく策略家でした。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」と。もっとヤコブを働かせておきたかったのです。過去ヤコブ自身が兄エサウに変装して父イサクを騙したことがそのまま自分の身に降りかかっているようです。のうのうと叔父は言います「とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない」。こうして「兄エサウの怒りのほとぼりが醒めるころには帰ろう」と思っていたヤコブは合わせて14年間ラバン家に縛り付けられます。物語は30節にヤコブの心の一端を秘かにあらわすように「こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した」と書きます。加えて「更にもう七年ラバンのもとで働いた」と結婚条件のような労働生活が20年にもわたり、寄留者という生き方がヤコブの心に絶え間なくカナンへの帰郷の思いを抱かせていたのでした。

 第3部(29章31節から30章24節)に至るとそんなヤコブの異郷での生活が二人の妻のまるで子づくり競争のようになってしまうのです。後代のイスラエル形成時代の書き込みもあり、12人の子どもたちが名前の由来付きで書かれます。ラケルからはヤコブの愛情にもかかわらず、二人しか生まれず、側女ビルハの子も合わせて四人ですが、レアからは神の計画の内で後の重要な部族の父祖であるレビ(司祭職の部族)やユダ(ダビデやイエスの父祖)また側女ジルパの子ふくめて八人が生まれます。この子づくりの悩みは30章1~2節のように夫婦たちにとって非常に危機的な関係を生じさせたのでした。

 第4部(30章25節から31章42節)では叔父ラバンのもとでの従属的労働から独立しいよいよハランからカナンへと脱出と逃亡を図るヤコブの計画が進められます。契約の14年が過ぎてもラバンはヤコブを繋ぎ留めようとし独立をゆるさず10回も報酬を(安く)変えたのでした。ヤコブは二人の妻に神の言葉に従ってカナンへの帰郷を打ち明けます。虚々実々の羊や山羊の分配合議の裏で策略を練ったヤコブは大半の家畜を自分のものにした後、妻たちと共に逃げます。妻たちもすっかりヤコブの計画に乗り父ラバンの守り神象さえ盗み取って行きます。この脱出騒動ではヤコブや妻たちの行動はどちらかというと非常に悪辣で娘たちに見棄てられたラバンはかえって哀れにさえ見えます。

 終盤の31章の38節から42節にはラバンの元を去るヤコブの恨みや切なさが入り混じったような心情が吐露されています。「この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう」。

 ここに人間が何を背負わなければならないかを思わせられます。家の人間関係を担いつつ神の約束がどこに向かっているかを見なければなりません。ヤコブは利益につながれた関係の中から家族を背負わねばなりませんでした。しかしやがてヤコブはそれを新しい神の故郷へと背負い続けようとするのです。このヤコブの帰郷は出エジプト記と重ねて見ることができます。異郷の生活から神の約束の地への脱出です。

 ここでヤコブはギリギリの人生に向き合わされました。自分がほんらい生きるべきでない異境の中で彼は家族、妻を得なければならず、自分の願うものとは違う人生を始めなければなりませんでした。この世の中で出会い結婚し家族を背負い人生をつくり上げねばなりませんが、しかしついにはそれを背負いつつ新しい目的地、ほんとうの彼の故郷である神の地に行くのです。これはわたしたちの生き方です。この世で背負う家族を伴いつつ神の家へと向かうのです。罪にも出会い過ちも背負うそんなところでわたしたちの人生は始まります。でもこの世での罪の重さや過ちの傷をあのキリストの十字架によって静かに受け止め復活の命によって冷静に超えていくことを神は約束しているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。