説教 20231001マタイによる福音書11章20-30節

「心改めると安らぎあり」

   ― 弱さをゆるされて生きる ―

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

 休ませてあげよう。

 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

 どれほど多くの人々がイエス・キリストの前に来て癒しと慰めを願ったことでしょう。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから人と共にある洗礼を受けて以来、イエス・キリストはガリラヤの町々を巡り訪ずれ何千と言う病む人、貧しい人、虐げられた人に出会い、数えきれない救いの業を現したのでした。人々から嫌われる皮膚病の人、悪霊すなわち心の病に取り憑かれた人、自分だけでは生きて行かれない中風の人、身体の不自由な人、罪人と蔑まれる人、貧しい人、そのすべてにイエスは近づき、触って、語らい、癒しを行われました。その人々にたいして湧きあがり抑えることのできない痛みと悲しみの思いを込めた言葉をイエス・キリストはそのように語りかけたのでした。

 この「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」はイエスの歩みの前半を象徴する代表的な語りかけと言えるでしょう。これは人々への「招き」の言葉と言えましょう。ちなみに、主の歩みの後半に向かうところでの有名な言葉がもう一つあります。それは16章24節で語られる「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」という呼びかけです。それは十字架の苦難への導きの言葉と言えます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。何度も読むとイエス・キリストはじつに不可思議なことを言ってるのではないでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者よ、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言うのです。軛は農耕のスキやクワを曳かせたり荷を運ぶために家畜の首に掛けられる労働具です。イエスのもとに行き軛を背負って働かなければならないのでしょうか。疲れてクタクタになっているわたしたちにさらに働けと言っているのでしょうか。

 いえこの「わたしの軛を負い、わたしに学べ」と言うその人はこう言います。「わたしは柔和で謙遜な者だから」と。柔和とは弱いという意味とほぼ同じです。謙遜とはへり下ること仕えることです。つまり誰よりも弱く誰からも低められるそのイエスに学び軛を背負うことこそ「休み」と「安らぎ」を与えると言うのです。イエスは救い主として来られました。神の愛を伝えられました。でもイエスは王のように戦いませんでした。争いませんでした。さらに言えばイエスは勝ちませんでした。神の子イエスはついに捕えられ、裁かれ、十字架につけられ、殺されさえしました。その方に学び、そのイエスの与える軛を背負えよと言われる。そこに安らぎがあると。この休み、安らぎと言う言葉は「止まる」とりわけ「元に戻る」という意味を含んでいます。

 疲れはどこから来るのでしょう。人間は何故疲れるのですか。この「疲れた者」(コピオンテス)は「打たれた者、倒された者」という原意があります。「傷ついた者」と言ってもよいのです。斎藤良夫と言う学者はわたしたちの仕事が「脅威や不安を与える」ものと気付いた時それがストレスと疲れを生じさせると言っています。実績を上げなければ、達成しなければという脅威や不安が日々わたしたちをたたきつけ疲れへと追い込みます。また人は疲れた時ひとりぼっちの孤独におちいります。

 イエス・キリストは「この弱いわたしに学び、わたしの言葉を背負え」といいます。イエスに繋がり、イエスと共に弱さを担うなら、そこに安らぎが与えられるというのです。深く考えればこのイエス自身こそ疲れ重荷を負われる方ではないかと思うのです。

 しかし、じつはこの「招き」の言葉は「真実の悔い改め」への招きなのです。ここでイエス・キリストは町々でなされた数多くの癒しや愛の奇跡に人々がどのように応答したか悔い改めたかを問い正す中でそれを言われたのでした。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とここは始まります。イエスは訪ね歩いて教えても悔い改めなかったイスラエル民族のコラジン、ベトサイダそしてカファルナウムを責め、かえって異邦人のティルスやシドンはては過去の悪徳の町ソドムのほうが軽い罰で済むと言います。異邦や悪徳の町よりイスラエルの血族の町々が裁きが厳しいとはどういうことでしょう。それはアブラハム以来のイスラエル民族こそ固定化した律法と伝統の上にふんぞり返って真の悔い改めや信仰をないがしろにしていたからです。「自分は悔い改めなど一つも必要ない」、「天にまで上げられるとでも思って」自分を巨大化して生きている人々にイエスの批判は向けられたのでした。

 ところが神の裁きを語りながら驚くようなことをイエスは言うのです。「父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と。悔い改めが問われる荘厳で厳粛な「裁きの日」の真っ只中に「幼子」に光が当てられるのです。ここには古いユダヤ教の律法社会が批判されていると言えます。選民イスラエルは神の知恵あり賢い民で悔い改めは必要ない、すでに聖なる民族だという自己肥大化した驕りに。

 しかしイエスは信じる人間と神の関係を父と子の関係にたとえます。イエスは小さく弱い「幼子」こそが神に受け入れられると言います。「幼子」こそ悔い改めを知る。なぜなら父を見ればすべての心を開いて駆けよりふた心なく父にすがるから。

 だからイエス・キリストは「休みと安らぎを」と言うのです。ここでイエス・キリストは「力」を与えるとは言いません。「知恵や賢さ」を与えるとも言いません。わたしたちもそれを求めません。父が子に与え、子が父に求めるものとは愛に満たされた「休みと安らぎ」のほかにないでしょう。それが悔い改めです。

 人間は弱さの中に生きられた神の子イエスが呼んでおられることを知るとき、自分の弱さが赦されていることに気づくでしょう。そして自分も自分の弱さを赦すことができます。自分が弱いままで生きられるなら隣人を赦すことができます。傷ついた隣人であれ厳しい隣人であれ弱さを抱いていることが解るからです。弱さを知ることこそ強さになるのではないでしょうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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