説教 20230903マタイによる福音書11章2-19 節

「 裏はないという人の心に闇がある 」

 イエスは言います。

 「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」。

 想像してみましょう。あたかも戦争を仕掛けられたような状況が天の国に起こったというのです。神の国の国境が暴力によって踏みにじられ、敵が激しい勢いで天国を蹂躙し奪おうとしているとイエスは言います。

 この事態をまたイエスは「今の時代を何にたとえたらよいか」と言って子供たちの歌う歌を語られます。

 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。広場という人の集まる場なのに子供がこう歌う。楽しい笛を吹いても一緒に踊ってくれず、弔いの歌を聞いても涙ひとつ流してくれなかった。人が人の心に応答しない。

 これらの言葉によって主イエスが表そうとしたことは何でしょうか。それはこのイスラエル社会の人々が律法の権威を高めるあまり神の尊厳を踏みにじり、神のメシアや預言者に暴力を振るうがごとく、罵ったり貶めたりしているあり方です。

 それはヨハネやイエスに対立するユダヤ教を中心とする人々のことを言ったものですが、広くはユダヤ社会全体を覆う神の代理者然とした不遜な権威者らのことであり、さらに言えばこんにちのわたしたちの他者を批判非難するあり方にもつながります。

 「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。

 これはユダヤ教徒や律法学者、ファリサイ人が洗礼者ヨハネや主イエスを攻撃した様子を言われたものではありますが、それは同時にまさに的確にわたしたちの社会の混乱を言い表しています。人が人を信じ合わない社会、人が互いに貶める社会。自分を絶対に正しい人間と考え、他人を赦さず、理解しようとせず、死にさえ追い込む社会の姿です。

 こうした力ずくでの神の国攻撃にヨハネは攻め込まれ彼の信仰は揺らいでしまったのでしょう。彼は弟子たちを通し問いました。「来るべき方メシアはあなたでしょうか」と。イエスは信仰が揺らいだヨハネに言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。重大な忠告です。「つまずき」はギリシア語「スカンダロン」の訳で歩きを邪魔する道端の石のことです。それは今日有名人などの醜聞に使われる「スキャンダル」の語源です。週刊誌ネタやワイドショーに数えきれないほどある「スキャンダル」です。このスキャンダルから一つのことが見て取れます。それは絶頂からドン底への一瞬の転換です。いえ転換というより絶頂がドン底を内に孕んでいたというべきでしょう。いいい気になって歩いていたら思わず当たって怪我をするのです。自信こそが失敗の元となるのです。人間をつまずかせるのは人間の傲慢な自信といえます。他人より自分を上に立たせどんな他人も評価付けして赦そうとせず裁き見下します。でもその時わたしたちは自分につまずくのです。力ずくで大切なものを壊しているのです。天の国を。隣人の尊厳を。

 しかし最後にイエスはたったひと言素晴らしいことを言います。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と。この「働き」とは何でしょう。「働く」とは自分の目の前に隣人を見ることです。それは自分を良くすることではありません。自分の信仰を高めたり貴くすることでもありません。「働く」は「仕えること」と言い換えられます。隣人と共に生き、目の前にいる人の命を背負い担うことです。隣人そして神のために祈り仕えることが真実の知恵の正しさをあらわします。ちょうど子供が大人を無邪気に受け入れるように隣人を受け入れることが真実の働きです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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