説教 20230817創世記28章10-22節
「 心に架けられた神からの階段がある 」 ― 石枕の神 ―
「まさかこんなことになろうとは!」 予測だにしない結末に追い込まれ荒れ野にさすらうヤコブでした。あの兄エサウより格段に賢く長子の権利も祝福の権利も奪い取って家長の座に座ったはずなのに「なんでまたこんな寂しい旅に出なくてはいけないんだ」。考えてみれば兄を見下した自分も、夫である家長のイサクを陥れた母親リベカも自分で自分を追い込み、裏目の結果に翻弄されてしまったと言わざるをえません。後世、聖書を読むわたしたちはまるで「ここに神の計画あり」などと得心したように思い浮かべるものですが、このヤコブ本人からしてみれば20年にわたる流浪の旅と寄留生活は犯してしまった不法行為への報復としては、まったく割に合わない過重な重荷であったのではないでしょうか。それはヤコブに負わされた冷や飯喰らいの下働き生活の辛さと言うばかりでなく、一生にわたって兄の復讐心への恐れとやましさに責められ続けて生きねばならなかったと想像するからです。
さてヤコブは「とある場所」へと辿り着きました。旅を始めたのは家族と共に住んだベエルシェバでした。ベエルシェバは「死海」すなわち「塩の海」の西岸から西へほぼ直線で50キロメートルのところにありますが、辿り着いたその場所はやがてヤコブが「ベテル」と名付ける地でした。それはベエルシェバより直線60キロメートル来た場所だったのでした。なぜそこが「ベテル」すなわち「神の家」と名付けられたか。そのいきさつこそこの「とある場所」の出来事のメッセージにほかなりません。
もう故郷を発って3日以上は経っていたかもしれません。いよいよ心細さがつのる頃だったでしょう。その日も暮れ建物ひとつない荒地とはいえ、ヤコブは石を枕代わりに疲れた体を横たえて夜のとばりに眠りに入ったのでした。石と言っても「漬物石」のような丸い、ほんとに枕代わりに丁度いいものを想像してはいけません。この地の石はすべて角ばって尖った岩です。そんな岩枕で寝たのです。するとひとつの夢が彼を包んだ。その夢は「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)というものでした。想像するからに神的で天国的な情景です。さらに彼の傍らに主すなわち神が立って彼に話しかけたのでした。
考えてみればヤコブはこの旅ではじめて独りぼっちの境遇に置かれました。守ってくれる母リベカや他の家族もおらず、それまでの生活を失い、あるものといえば将来への怯えと情けない自分への嫌悪感ばかり。もぬけの殻のようになってしまった自分がこの寂しい旅になんの希望が持てるだろうか、そんな気持ちを抱えていました。思えばヤコブは全くの裸の自分に向き合わざるをえなくなったのでした。それは将来に希望を見て出た旅ではありません。じつに気持ちの入らない旅、その毎日、そんな人生。何かしようとしても何にも思いつかず考えも浮かばない歩みです。一縷の希望さえないのです。それは今のわたしたちにもあるような歩み。そう、石の枕です。硬くて、頭を置けばゴツゴツと痛く攻める岩です。どこへ行くにも自分用の枕を持っていく人がいます。自分の枕でないと眠れないものです。どんなに高級で気持ちよさそうなホテルの枕でも、高さが合わない、柔らかさが違うなどと安らうことはできません。それがさらに尖って痛い石の枕とは平安のない人生の旅そのものを表しています。
ところが「仕方ない」と石の枕に眠った時、ヤコブに今まで見たこともないような不思議で神々しい夢が湧きあがり、夢の中でまざまざと神と出会ったというのです。たいへん面白い対比です。ゴツゴツして不快な岩の枕で見る夢がじつに神々しいとは。天につながるような階段、行き来する天使たち、そして主なる神の祝福の語りかけ。
「「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(14節)。そしてついに核心はこうです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)。
ただこの子孫の約束はすでに父イサクが3節で旅立つヤコブに言い渡していた言葉です。子孫の約束、それは地上に立ち回る人間もまた発することのできる祈りであり言葉でしょう。それよりもこの夢の中に神だけが語りうる言葉があります。それが「見よ、わたしはあなたと共にいる」なのです。それはこう言うのはないでしょうか。
「行きなさい。あなたはどこへ行ってもいいのだ。どこへあなたが行き、どこにあろうとも、見なさい、わたしはあなたの傍らにいるのだ。あなたからわたしが離れることはなく、いつもあなたを思い、見つめているのだから」と。神はたんに「子孫が増やす、繁栄させる」とだけ言わないのです。「わたしはあなたと共にいる」と言うのです。
ここで勘違いすることのないように。神は「わたしどこにでもいる」とは言っていません。天上であれ地上であれ「わたしはどこにでもいる」と神は言わない。「神の偏在」という中世以来のキリスト教用語があります。天の端、地の端、地上地下のどこも神のおられる場所だと。哲学的には「ユビキタス」という。神は「どこにもあり、どこにもいない」という意味で哲学的神の特徴です。ひょっこり現れて危険に陥っている人間を上手く助けてくれる神。「デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神)」ともいいます。こんにちの「いつでもどこでも役立つスマホ」のような神でしょうか。役立つ神?
そうではなく聖書の神はこう言うのです。「わたしはあなたと共にいる」、「あなたと共に」と。神はどこにでもいるというのではない。むしろ「あなたがどこへ行っても」と言うのです。「どこに」とはわたしたちのことだ。「あなたの喜びと共にあり、あなたの悲しみと共にあり、あなたの呻きと共にあり、あなたの弱さと共にあり、あなたの孤独の傍らにある」。天国に行くならわたしも行こう、地獄に行くならわたしも一緒に行こう。まさにイエスは黄泉に降られた。
神はヤコブに言われた。「あなたを守り、連れ帰る。そして約束を果たすまであなたを決して見棄てない」と神は言う。それはわたしたちへの約束です。神はつねにわたしたちを待ち、約束を忘れずに果たす友であろうとされるのです。行き詰まって無力に眠る時、神はわたしたちの心に神とつながる階段をかけ、かならず来て語りかけられるのです。
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