説教 20230716 創世記27章1~27節(旧約p.42)   ローマの信徒への手紙9章11~18節

「神は愛を選択する」 

 ― 神のドラマは一筋縄ならず ―

 わたしは先日母校名古屋学院高校の創立136年記念礼拝の説教に招かれました。そこで告げようとしましたメッセージは「答えに安住するな、問うことから進め」ということでした。人間が生きるのは問うことによってだ、答えによてじゃない。与えられた答えに安穏とするのでなく自分のために自分を問い直そう!と言いたかったからです。聖書は、結果誰もがそれに従う答えではなく先ず君たち一人一人が生きるために投げかける問いこそが大事だと教えているのです。ところが、最近何にでも答えるものが登場しました。生成AI対話型人工知能です。ニュースでも教育現場はどう対処すべきか検討しているといいます。それじゃわたしもと早速CHATGPTなるサイトに入りまして聞きました。まず総督ピラトが十字架に架かる直前のイエスに投げかけた問い「真理とは何か」をCHATGPTに聞きました。そうするとホントに見事にぬかりなく答えます。哲学や宗教また論理学も視野に入れてバランスよく纏めて答えます。そこで思いました「いやあ綺麗な説明だなあ、でもこれ人間が問い求めるものじゃないような気がする」と。なぜなら人間が問おうとする時、人間はもっと自分に引き寄せ偏って問うのです。あるいはねじ曲げて問い求めようとするのではないでしょうか。人間は他の誰でもない自分が生きるために問うのです。そしてそれは聖書の中の神もまたそうではないかと思います。

 この聖書は25章の弟ヤコブが兄エサウにしかけた「長子権」の騙し盗りの対(つい)となる「祝福」の騙し盗りの出来事です。ここでは父イサクが騙されます。物語は老いたイサクがみずからの死を前に神の前でエサウに祝福を与えようとします。ただその前に狩人エサウの獲物の料理を食べて祝福しようとイサクは言います。「祝福」は神が天地創造で生き物そして人間を創造したときに与えられた祝福につながります。生きとし生けるもの人間も含めてすべてに注がれる恵みと力と言えます。そうして食事の後イサクはこう語りかけます。

 「どうか、神が

 天の露と地の産み出す豊かなもの

 穀物とぶどう酒を

 お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え

 多くの国民がお前にひれ伏す。

 お前は兄弟たちの主人となり

 母の子らもお前にひれ伏す」。(27節以下)

 ただ、イサクの前に立っていたのは長子ならぬ弟ヤコブでした。それは兄エサウより自分の愛するヤコブに家をつがせたかった母リベカの策略でした。「長子権」詐取の時はヤコブ自身の半ば「からかい」に近い騙しであったのが、ここでは奸計巧みに夫イサクの老化をいいことに、まるで「オレオレ詐欺」のごとく、耳をごまかし手触りを騙し料理で酔わせ、ついに祝福を獲得します。それは兄エサウ本人が帰る時まで見抜かれることはありませんでした。やがてほんとうのエサウが来た時、「では、あれは、一体誰だったのだ」とイサクは虚構から現実へ突き落されたのです。深い絶望と激しい恨みに怒るエサウにイサクは祝福の言葉を投げかけようとしますがそれは、

 「ああ

 地の産み出す豊かなものから遠く離れた所

 この後お前はそこに住む 天の露からも遠く隔てられて。

 お前は剣に頼って生きていく。

 しかしお前は弟に仕える。

 いつの日にかお前は反抗を企て

 自分の首から軛を振り落とす」

と、ヤコブの時と同じ地の産物という言葉も生きる民という言葉もすべて正反対にエサウから消えていきます。

 この兄と弟の地位逆転の出来事は「後にいる者が先になり」と言うイエスの言葉となります。またパウロがローマの信徒への手紙9章で「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです」と書くメッセージとなるものです。

 つまり、これは「すべての初子はわたしのものだからである」(民3章12)と神が言われた長子規定への違反、兄弟順序の逆転です。律法を破っています。でも旧約聖書をよく読むとなんとよくあることか。アブラハムの長子は元々イシュマエルだったのにイサクが。ヤコブの長子はルベンだったのにヨセフが。ヨセフの長子はマナセだったのにエフライムが。

 さてこんな兄弟逆転、既定の違反、律法破りの「何故」をAIのように説明しようとすればこう言えるでしょう。「神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるため」神は自由な選びによってヤコブを選ばれたと。でも、それだけで終わってはそれこそAIの説明と同じでしょう。

 それでは何故神は自由にエサウでなくヤコブを選ばれたのですか。神の自由な選びとは何ですか。神はなにゆえに自由なのですか。「人の思いによらず神の思いによって」と神学は結ぶでしょう。ならばそれは「人は黙って神の言うことを聞け」となってしまいませんか!? 信仰とは隷属ですか。いえ、むしろ神は自由な選びの中にこそご自分の愛を啓示し露わにされました。人間と同列にあることをご自分に問いかけそしてそれをご自身のありようとする自由に揺るぎない喜びを抱かれたからです。神は「人を愛することを選ばれた」からです。「律法の定めではなくそれさえ破る生きた愛を」選ばれたからです。愛されて当然の人間を選んだのではなく神は愛される資格のない人間を愛することを選んだのです。神はこの愛において自由であろうとされたからです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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