説教 20230702 マタイによる福音書10章16-31節 「愛する者は恐れない」

― 命を越えたものを知る強さ ―

 人間は恐れの中に生きています。いつも纏わりつかれるように恐れに後をつけられたり、突如現れた恐れに問いかけられて言葉を失ったり、ついに追い詰められて無力に自分を投げ捨ててしまったりしませんか。「高所恐怖症」とか「対人恐怖症」など人間は無数のものに恐怖を抱くといいます。でも日常的に誰もが恐れるもの、それは他人から責められたり暴力を受けたり傷つけられたりすることでしょう。

 イエスは教えを伝えるために弟子たちを送り出すとき、その心構えを語られました。でもよく聞くとそこには身震いするような言葉が出てきます。「狼、警戒、鞭打ち、親兄弟どうしの殺し合い、恐れ」。恐れを生み出すこれらをいっそう耐えられなくするものは孤独です。闇の中に独りぼっちだ、誰も助けてはくれないという時恐怖は倍増します。しかしどんなに恐れ苦しんでも、誰かが知っていてくれたら、その苦しみは半減します。耐えられる痛みも、誰にも共感してもらえないと、つまり自分の味方がいない時、果てしなく続く痛みに思えるでしょう。讃美歌の「わが悩み知りたもう」という歌はそんな孤独から歌ったものでしょう。

 「殉教者」という言葉があります。主にカトリックのキリスト教会で使われる用語で、神への信仰のために命まで投げ出した人のことを言います。じっさいには国家や異民族からの圧迫に対する教会の抵抗ですが、絶命の情景は信仰者が自分の信仰を守る厳しさや気高さを強調してかなり肉体的苦痛や残酷性が強調されたりします。事実そのとおりの場合もあります。

 ペトロは逆さ十字架に甘んじ、パウロは鋸で身体を引き裂かれたといいます。バルトロマイは身体の皮を剥がれて死に、アンデレは散々打たれた後十字架に吊り下げられたといいます。江戸時代のキリシタン弾圧では踏み絵を踏まなかった信者を火だるまの刑、谷落としの刑、馬に蹴らせる刑など西洋以上の過酷さです。わたしも牧師でありながらなんですが「これは苦しそう、たまらない、嫌だなあ」などと心底思うものです。

 このイエスの「心構え」の言葉には伝道者を迎える危険や迫害が書かれてますが、いくつかの指示の具体的な言葉もあります。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」(16節)。「人々を警戒しなさい」(17節)。「何をどう言おうかと心配してはならない」(19節)。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23節)。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23節)。

 でも、イエスは恐れの対処術など教えてはいません。イエスは言います。19節の「言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」という言葉です。そして26節以下に「人々を恐れてはならない。・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われます。そしてもっとも力強く「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と語られるのです。

 この言葉の核心を理解したのが宗教改革時代に著わされた『ハイデルベルク信仰問答』でした。

 この信仰問答書は言います。生ける時も死す時も人が最後に頼る唯一つの「慰め」は何か?一見これはキリスト教的な問いなのかと問い返すくらい人間臭い問いなのです。有名な『ウエストミンスター信仰問答』が「人生の目的」として人間の現実を神へと方向づけるのとは反対に『ハイデルベルク信仰問答』はむしろ人間臭く、人間の悲しみの側に立ち、わたしを慰めてくれるものはいったい何なのか、という人間の内面からこみ上がる訴えに目を向けているのです。さらににその第2問は人間の「罪と悲惨」を挙げます。これも現実の苦悩に目を向けています。

 イエスは何を思い浮かべているのでしょう。わたしたちがもっとも孤独に陥る時、それは死が迫る時と言えます。死を恐れる時は迫害の時ばかりではありません。年老いて死を感じ、病気になって死にさいなまれ、失敗してはそれを思い、人から責められてそれを思う。死が迫るごとにわたしたちは監獄の独房に押し込められたような気持になります。自分しかいないからです。誰もこの自分を慰められやしない。誰もこのわたしの闇を知っちゃくれない。真剣にそう思いますが、それは傲慢が引き起こす罠ともいえましょう。

 しかし主イエスは「だから、恐れるな」といわれます。何故?それは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」からです。神はあなた以上にあなたのことを知っておられる。わたしたちが自分でも数えられない髪の毛の数までも知っておられるなら、孤独の奥にうずくまるわたしたちの悲しい恐れを知らずにおられるだろうか。

 そしてそれはわたしたちがわたしたちのものではなく、救い主イエス・キリストのものだということを言うのです。ローマ人への手紙14章7節からの言葉のとおりです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。

 それは恐れからの解放です。自分で自分を恐れさせる自分から解放されているのです。自分で自分を裁いて陥れている人間の罪の惨状から解き放たれて、ほんとうにわたしたちを招き支配してくださる神のものとされている。これこそ迫害にあっても死にあっても、わたしたちが恐れなくてよい、恐れる必要のない大きな核心なのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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