説教 20230618 創世記25章19-34節 「権利を軽んじてはならない」

― 人間の不都合が侵すこと ―

 創世記の物語は今やアブラハムの孫の代の出来事に入ってゆきます。「アブラハム、イサク、ヤコブ」とよく三人一組で呼ばれますがこの三者は「族長」と呼ばれ、後々のイスラエル民族の祖先と仰がれます。祖先と言うからにはよく一般に民族開祖としての功績が付随するものでしょう。ところが創世記はそれは書きません。アブラハムなど歴史的事件や戦いはあるもののそれは功績として描かれません。むしろ族長たちはじつに人間臭く個性それぞれに人物像が想像されます。神に信頼し従う実直な信仰のアブラハム。感は鋭く井戸を掘りあてるものの他部族に横やりを入れられるたびにそれをゆずり環境に順応してゆくイサク。そして誕生前からおのれを主張して兄弟同士で争い合うヤコブ。と言って、それはたんに興味半分の歴史講壇ではありません。そこに核となって貫くものは神が彼ら族長たちとの間にたてようとされる生き生きとした選びの契約の計画です。しかし聖書はそれを絢爛たる絵巻のように展開するのでなく、とてつもなく度し難い人間的弱さやエゴの立ち回りの中に決して忘れられもせず生きて語り導く核心として貫き通すのです。

 イサクのもとに生まれた二人の子。兄エサウと弟ヤコブ。双子として誕生しますが、生まれながらにして争う二人です。性格も得意分野も違う二人。生まれながらに毛深くいつも野で狩りに熱中する兄エサウに対して、生まれた時から兄のかかとを掴んで、すきあらば兄の取り分をかすめ取ろうとするのが弟ヤコブでした。

 そしてついに事件が起こりました。狩りから帰る兄ヤコブの胃袋が素ッ空カンなことやそんな時の兄はまったく前後の見境がなくなることを計算の上で、ヤコブはレンズ豆スープを熱く煮立て盛大にその香りを部屋中に立ち込めさせておいたのです。そしてこんな会話が始まるのでした。

 「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」

 「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」

「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、

「では、今すぐ誓ってください。」

 「骨肉の争い」という言葉があります。身内同士の争いという意味です。具体的でいちばん身近なものは家族内の骨肉の争いです。家庭裁判所に訴え出される家庭問題には「家庭内暴力」「こども虐待」「家族内モラハラ・パワハラ」といったものがあるそうですが、常に上位にあるのが「相続」問題だそうです。それはドラマに出るような超資産家の家庭にばかりでなくごく一般的な家庭にもあると言われています。弟義経を討った源頼朝や兄信行を殺した織田信長というように歴史的事件に目が奪われますが、現実ではわたしたちの日常にこうした骨肉の争いがいやおうなくうごめいていると言えるのではないでしょうか。

 まさに聖書は「こんなことあなたにもありますよ」と言わんとしてか、この「兄弟エサウとヤコブ」の争い物語は事件の場所が、実際のわたしたちの卑近な日常に避けられずにあることを言おうとしているのです。想い起してみればこうした兄弟間の葛藤問題はもうすでに創世記の4章で最初の人アダムの子どもたち「カインとアベル」の間に起こっています。そして聖書がじつに生々しく描いて読むわたしたちに迫るのは、「エサウとヤコブ」の争いが二人だけの喧嘩ではなく、すでに彼らの母リベカの胎内で起きており、それは母親の肉体のいちばん奥深いところにある現実の出来事です。それはどういうことか、その意味するところは、つまりやがて生まれ来る息子たちの争いはすでに親たちの問題でもあったことなのです。行きつけば親たち自身の問題であり、互いに心身をぶつけ合い身をよじらせるくらい悩ましい重大事態であったのです。今日のわたしたちの場合でも身内でも奪い合ったり、騙したり、企んでいたりとかする時、言い争ったり罵り合ったりするでしょう。

 旧約聖書において親たちに対してその全身を揺るがせ身も心も憔悴させる子どもたち子孫のこのような争いは神に選ばれ契約を受けた民のあり方を思うともはや危機的な状況と言わざるをえませんでした。しかしさらに突き詰めれば問題は相争う二人の兄弟に加担して両親までが対立したことです。

 「もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」。問題の根底はこの言葉にありました。これは口走ったエサウひとりの独白ではなく彼ら家族とりわけ親であるイサクの神に対する姿勢をまざまざと露呈した言い草ではなかったでしょうか。聖書が問うのはそこです。聖書はこの言葉にあらわれるイサクの信仰を問い、さらにその家族を問うて、コミカルにさえ思われる描写で、ついには家族崩壊まで記録するのです。神の契約を受けた家族として「かたち」を成していない人々の記録を。

 それは聖書として恥ずかしいことではないでしょうか。ここで弟は暗い策略をめぐらし、兄は刹那の欲求のため自分の務めを軽んじる。それは両親が与えられた神の契約をないがしろにしていたことを思わせます。この家族と兄弟の一部始終は聖書にとってどう見ても見苦しく、言ってみれば恥の記録といえます。

 ではなぜこのような破廉恥にも見える家族や人物の行状を聖書は記録するのかと、読む自分に当てはめて考えれば、それはこんなゲスで口にもできないわたしたちの争いあう見苦しい日常現実に、さらにそれを超えてもっとも現実的なもののあることを現わそうとするからです。わたしたちが恥ずかしくて言いようがないほど身に迫る「これがわたしたちの行き着く先の姿」という現実などよりもっと動かすことのできない真実の現実が存在し生きている。わたしたちが日々の過ちや罪の攻撃にさらされている時、それを超えてこれを打ち破って導き救う力強い神の現実がある、と聖書は言うのです。なるほど物語の大半はこの家族から出たヤコブという人物の人生の顛末一色です。そしてその最後にようやく現れる神によって彼は自分の人生を振り返ることになります。そのヤコブの歩みを神に導かれるつもりで今少し辿ってみましょう。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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