説教 20230521 創世記24章12-21節 「ほんとうのもてなし 」
- 神の意志に善し悪しあらず -
アブラハムは妻サラも失くし、いよいよ一人息子イサクの嫁探しをすることとなりました。神に選ばれたアブラハムは一族の血脈を保つため、居住するカナン地方からではなく、メソポタミア、ハランにあるナホルの町に住む親族から相手を探すため使者を遣わすのでした。嫁となる相手はかならずカナンへ連れ来るようにと命じられた使者は重々しい誓いの後、家畜や宝の贈り物を携えてハランに出発します。こうしてこの「嫁探し」物語が4ページにもわたって綴られますが、成程と感じさせるのが使者が「年寄り」だったということです。もし若い使者が嫁探しをしようものなら目の前に現れたどの女性にも目が眩み軽率に判断しかねません。年寄りは一歩引いて女性を冷静に観察したのでしょう。そこで彼は女性たちの集まる夕方の井戸辺に腰を下ろし、こう祈りました。「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください」と。
まさにこう祈ったその時、まさにアブラハムの一族筋にあたる娘リベカが現れ使者が祈ったとおりの行動すなわちもてなしをするのでした。ここから物語は一挙に使者とリベカの家族との対面へと動きます。そしてこの旅の目的が主人アブラハムから託されたものであり、神がアブラハムに与えた彼の子孫への約束を守るために必ずやカナンから嫁探さねばならないとはるばる来たこと、そしてその目的を今まさに神がリベカのもてなしをとおしてかなえて下さったことを使者は一言一句漏らさず告げるのでした。
長いこの嫁探し物語の大半を占める使者の言葉には神が娘リベカを引き合わせられたことの感動と安堵そして一刻の猶予もならずリベカを連れ行かねばならない性急さが感じられます。ことに彼の驚きは「らくだにも飲ませて」と祈りの一言一句を生身のリベカが実現したことにありました。
「おもてなし」は2020年の東京オリンピック招致の際に一躍有名になった言葉でした。結局様々な問題がありましたが海外客に向けての日本の優雅な言葉というような意味で広まりました。平安時代の「思うて成す」つまり「心を込めておこなう」という言葉から由来しているといいます。「心を込めて」は日本人の非常によく使う言い方といえます。贈り物をするとき、他人のために尽くすとき、仕事場でも家庭でも、一言も言い返せない金科玉条の支配的言葉です。わたしたちはこの「心を込めて」つまり「おもてなし」にがんじがらめにされています。
じつは聖書でもこの日本風の「もてなし」という言葉が安易に登場しています。イエスがペトロのしゅうとめの熱を癒した後、彼女は「イエスをもてなした」とあります。パウロが難破してマルタ島に打ち上げられたとき、島の人たちから「もてなし」を受けたことが書かれています。その他ヘブライ書簡やテモテ書簡などにも「もてなし」という訳がありますが、わたしはこれは少し無思慮な訳ではないかと感じます。ペトロのしゅうとめは「食事などで仕えた」が正しく、パウロはマルタ島民から「傷の手当の世話を受けた」が、テモテやヘブライでは「フィロクセナス」つまり「見知らぬ隣人への愛」が正確な意味です。なんだか心をこめて尽したとかたんに一生懸命になったということではありません。ことに書簡で何度も出る「フィロクセナス」「見知らぬ隣人への愛」は「求めに応える」「相手に応じる」「応答する」というべきです。目の前にいる隣人を知り、彼を理解し、言葉にならずともその求め、ときに渇きや痛みに応答して与えることがそれです。
決定的となったのはリベカが24節「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と身の内を明かしたときです。それまでは彼女を黙って見るばかりであった使者はついに神がめざす花嫁に辿り着かせ旅の目的をかなえて下さったことに感謝して祈ったのでした。彼はリベカからも神からも応答されたのでした。それがほんとうのもてなしでした。
事はさらに進みリベカから聞いた兄ラバンが来て使者もらくだも迎え入れますが使者はなによりも真っ先に事の次第すべてを述べ立てたのでした。主人アブラハムから託された嫁探しのこと、ハランにいる親族から選ばねばならない条件のこと、彼自身の人物見立てで神に祈りまさしくそのとおりのリベカに出会ったこと、そして彼女を主人アブラハムのいるカナンへと連れ行かねばならないこと、これらを一言一句違わぬ再現話法で説明したのでした。
結婚の成立の要となったのは使者が父ベトエルと兄ラバンに対して言った49節「そうおっしゃってください」「答えてください」の問い、そしてこれに応答した50節「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」の答えでした。こうして応答が成立したのでした。
それでも家族たちにはやはり肉親としての心残りがあり10日の猶予を願います。でも最後の決断は花嫁リベカ自身の手にありました。58節「はい、参ります」とリベカの一言でこの嫁探しの旅はその目的を遂げたのでした。
この物語はある面からみると人と人との出会いと応答の道筋を教えています。見も知らなかった者どうしが、神の導きと人の祈りをとおして出会い、知り合って人生を繋ぎ合わせていく段階のようなものが書かれているのではないでしょうか。人間どうしの関係は「心からのおもてなし」でよいかもしれません。でもそれは自分中心の正しさであり、やがて礼儀のせい比べや正当化になってしまいます。真の人間の関係は応答しあう祈りの関係です。そしてそれは神の愛によって完成されます。
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