説教 20230507 マタイによる福音書9章32~38節 「応える言葉はあふれ出る」 - 感謝の言葉は、あなたから来るものです -
出会いは言葉を生みます。人が出会うところにはかならず会話が生じます。そして向かい合って思いをやり取りするとき、わたしたちは自然に言葉を選びます。どんな言葉を言ったらよいか、どんな言葉を使ったら相手が生き生きとするのか。とくに心をこめて向き合いたい相手がいれば、全精力を傾けて自分の中から最高の言葉をそして相手を思う最適の言葉を選ぼうとします。そして自分と相手を最良の言葉で結び合わせようとするのです。例えば医者なら患者のために、カウンセラーなら相談者のために、教師なら生徒のために、最適の言葉を送ります。愛する者同士ならなおさらです。
大切なのはもっとも必要でふさわしい言葉を選ぶということでしょう。べつに金言名句を言うことではありません。「はい」でも「そうか」でもいいのです。言葉を選ぶとき、わたしたちは相手の内面に思いを遣り、あらゆる想像をめぐらしてその人の心に寄りそって共にあろうとするのです。
じつはこれが伝道の本質といえます。キリスト教は「伝道」ということを掲げます。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われたイエス・キリストに従って世界であれ近所であれ伝道します。これもまた言葉の出来事です。それはキリストの救いの福音をいまだ知らない人々に言葉をもって伝え知らせるということが基本なのです。じつはこの言葉による愛のわざがキリスト教の伝道の核心であると言うべきなのです。伝道は人数拡張のことではありません。たんに布教や教化ではありません。言葉によって伝道するのですから言葉の生み出す愛のはたらきをあらわすのです。
ここにイエスの前に一人の口の利けない人が連れられて来ました。イエスは山上で人々に語りかけたあと、精力的に癒しの働きをしました。思い皮膚病の人から始まり百人隊長の僕べ、墓場に住む悪霊に取りつかれた人などとイエスは数えきれない人々と関わり癒したのです。ただ、8章からのイエスの行動を見るとき、それが癒しのわざばかりでなくその間に、弟子に関することが書かれています。「人の子には枕するところもない」と言われた、弟子となる覚悟、収税人のマタイを弟子にする、断食しない弟子たちの新しい生き方のこと、そしてこの後の十二人の弟子のまさに派遣のことです。どうもイエスの癒しと弟子の選びや派遣が絡まっているように思えてなりません。
そしてさらに、この癒し活動また弟子の選びと派遣に加えて注目すべき文言が出てきます。それが「言葉」です。最初の思い皮膚病の人との「清くする、清くなれ」の言葉のやりとり、百人隊長の言った「ただ一言、仰ってください」。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人をみな癒された」とさえ書いてあります。二人の盲人は癒されたあと、口止めされたことを無視してイエスのことを言い広めました。そして今日のこの箇所の「口の利けない人がものを言い始めた」という出来事です。
これらはついに10章に至って描かれる十二人の弟子の伝道派遣、そしてイエスの「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」の伝道命令へとつながるといってよいのではないでしょうか。まさに「言葉」がキーワードです。主イエスが深く言葉によって癒し、癒された人々は抑えようもなく「言葉」を語りはじめ、伝道する弟子の先駆けのようにイエスの救いと愛を伝えようとしないではおれないのです。
さて「口の利けない人がものを言い始めた」(32節)。このことに群衆は大いに驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言います。しかし一方、ファリサイ派は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とまで言ったのでした(33、34節)。
「口の利けない人」とはどんな人のことでしょう。そこには深い意味が潜められているようです。「コーフォス」が原語ですが、「コー」は「遮る、止める、邪魔する」の意味、「フォス」は「フォン、音、声」です。「声を遮られた人」と解せます。でもたんに声だけでないのではないでしょうか。心理療法では「心因性失声症」と言われます。魂の内面に深い苦しみが負わされた時、突然声が出なくなります。ここでは「悪霊に取りつかれて」と書かれますが、自分の力量をはるかに越えた苦悩や悲しみ、自分では理解も解決も不可能な問題を抱えていたのではないでしょうか。それは36節にあるような「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれ」た姿にあらわされる日々の人生ではないでしょうか。
そんな彼が「ものを言い始めた」のです。弱り果て何の力も湧いて来ず鬱々と日々を過ごしていた彼が口を開いたのです。心の関が切れたように言葉が溢れ出てくるではないですか。喋ろうとしなくても言葉が生きているように出てきたのです。それは何故か。その秘密はイエスの「深い憐れみ」です。ここには書かれていませんが主イエスは彼に言葉をかけて癒したにちがいありません。イエスの憐みの言葉はこの人の内奥の闇すなわち罪にまで到達してその悲しみを知り、憐れまれたのでした。彼は背負ってきた暗黒の闇と苦しみのすべてのを知ってもらったのです。誰にも告白できなかった罪の闇を。だから彼は語り始めたのです。イエスに知られた自分の罪と闇だからこそ、もう告白できるのです。もう言い表せるのです。そして罪や闇を言い表せるのは感謝の告白にしかならないのです。またイエスへの讃美でしかありえないのです。そしてこの感謝と讃美の言葉こそ彼を弟子とし、伝道となるのです。
言葉を交わしあうところに伝道はあります。伝道はただ人を増やしたり、教えを布教することではありません。神から語りかけられて憐みを受けた人間が隣人に出会い言葉をかけるとき、それがおのずと伝道となっていくのです。
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