説教 20230416 マタイ28章1-6節 コリント一15章16-19節
「死ぬべき人間、復活する」
- ヘンデル『メサイア』から学ぶ「復活」-
「イースターおめでとうございます」。(教会暦からは遅れていますが)このようにご挨拶できることを本当に嬉しく思います。
しかし、その日、その場所、主イエスの亡骸(なきがら)が葬られた墓を訪ねた女性たちに「おめでとう」どころではない、とんでもないことが知らされたのでした。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。その日二人は喜びどころか、主イエスの死に向きわねばならない悲しみにうち伏していました。でもその言葉を聞いて墓を出るが早いか彼らは目前に復活のキリストを目の当たりにするのでした。
少し豆知識のようなことを言いますと、キリスト教の3大祝日がありますね。「クリスマス」、「イースター」、「ペンテコステ」ですが、このうち最も早くから祝われているのは、どれだと思われますか。それは「復活祭」です。イースターと言わないのは、それは中世以後イギリスやドイツに伝わって後から付けられた名称だからです。その次に来るのが「ペンテコステ」。いちばんよく分らなくて後にようやく決められた祝日は「クリスマス」です。ローマ帝国時代の325年のニカイア会議で、それまで各派各地域などでバラバラだった降誕日を12月25日に統一した訳です。「復活日」はそんなふうに決めなくてもすでにはっきりしてます。なぜならユダヤの「過越祭」は歴史上ずっと今でも祝われており、それが明けた日曜日にキリストは復活しましたから。それが「復活日」です。当然「ペンテコステ」つまり聖霊降臨日は復活日から5(ペンテ)週過ぎた日曜日となります。
さてそんな祝日に合わせた宗教曲で有名なものといえばヘンデル作曲の『オラトリオ・メサイア』があります。それはこんにちほぼ12月のクリスマスの頃に演奏されますがそれは違います。じつはヘンデルやジェネンズという脚本原作者の意図は受難週から復活日にかけて演奏することを目指して作曲されたものなのです。実際に初演日は1742年4月13日でダブリンという町の病院患者と囚人のためのチャリティーコンサートとして演奏され、それ以後も多くは受難週の頃演奏されました。
ですから思いませんか。年末のクリスマスに年忘れ行事のように開かれ、くしゃくしゃした気分を吹き飛ばしてくれる感動的なこの『メサイア』のはずなのに、正直言うと、どこか圧迫感のようなものを感じざるを得ません。最初のシンフォニーもなにかおどろおどろしい感じですし、1部の預言は人間の大きな罪と悪への神の激しい怒りであったり、2部の降誕は美しい中になにか含みが持たせあるようです。受難場面では重苦しく人の罪を背負いつつ嘲られるメシアの姿は悲惨です。そんな苦しい流れの最後だからこそ「ハレルヤ・コーラス」はいっそう美しさと力強さを感じるのでしょうか。
ともあれ、『メサイア』はじつは「復活」の本質を描いている音楽というべきです。クリスマス音楽ではないのです。人間の重く深い罪、神への反抗によって迷い出てしまった苦しみに悩む人間が「キリストの受難と死」によって贖われ救われて、死から立ち上がり復活するドラマが描かれるのです。それは何故か。
よくヘンデルはたった24日間で『メサイア』を書き上げたという早業ばかりが取り立てられます。しかしじつはこの24日間ヘンデルは病の床にありました。当時オペラ事業もしていた彼は対抗する興行主に負け、経済的にも健康的にも凄惨を極めどん底にありました。自殺さえ考えていたとも言われます。精魂尽き果てていたヘンデルに『メサイア』作曲の依頼がありました。初めは乗る気ではなかったのですが、やがてその台本すなわち聖書を読むうちに、自分の苦悩と死をそこに映し込むようになりました。そして作曲を進めるうちにヘンデルは神の愛とキリストの救いの偉大さに涙を流しながら作曲を完成させたといいます。
じつは『オラトリオ・メサイア』は前半中半は原作者ジェネンズによる聖書構成ですが、第3部は葬儀式用の形式をとっているのです。「えっ、葬儀の形式がなんで復活?」と思うかもしれません。いえ、これこそ復活の場所なのです。人が死すべき、当然死ななければならない場所、逃げることも出きず、あらゆる罪と苦悩を背負って人生が潰え去ってしまうそんな人間の死、そこが復活の場所となります。そこにヘンデルは自分の死も命もすなわち復活も描かれていることを知ったのでした。「もう、いやだ、生きていたくない、死んだほうがましだ」と死ぬほどに苦しむそこが復活の場所へと変えられるのです。
『メサイア』のことをもう少し見てみますが、不思議だなあと疑問が湧くところがあります。それはかんじんのイエス・キリストの十字架や復活の場面がないことです。イエスが十字架で叫んだとか墓が空っぽになっていたとか、復活してマリヤたちに話しかけたというような描写はまったくありません。全能の神の笑いとか神の子の力強い姿が歌われてついに「ハレルヤ」と讃美されますが、キリストの十字架や復活がこんなあんなとは描かれません。
わたしは思います。第3部の死者の葬儀形式にこそ復活が歌われていると。そうです。キリストの復活を劇場風に描写したり、復活したキリストを映画のヒーローのように崇めることが聖書のいう復活ではないのです。キリストが独り神々しく復活するのを見ることが復活のクライマックスではありません。キリストの復活の中でキリストと共に弱いあなたが苦しむわたしが復活することが「キリストの復活」です。キリストの復活の力によって、「死すべき人間」が復活することがキリストの復活を実現、完成するのです。人が神の愛とキリストの受難と贖いの死のわざによって、悩み苦しみの中から立ち上がり、ふたたび命へと復活することこそ、キリストの復活のすべてなのです。
パウロが言っています。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。・・・この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。死者とはわたしたち。
わたしたちはいつか復活する、ではありません。そういう死後や天国が待っている、ではありません。今、わたしたちが苦しみ悩むとき、心が辛いとき、どんな時にも、そんな死すべき苦しみの中に場所にキリストの復活が常にあらわれ、わたしたちを突き動かしているのです。
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