説教 20230402 マタイによる福音書27章45-50節 ローマの信徒への手紙5章6-11
「罪人のために死せり、キリスト」
― 神の死の叫びは永遠の命へと招く ―
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。それは十字架の上で発せられたイエス・キリストの最後の言葉でした。その直前に聖書は全地上が真昼というのに闇のように暗くなって3時まで続いたと描きます。旧約聖書のヨエル書2章10節や4章15節を見ますと、「その(神の)前に、地はおののき、天は震える。 太陽も月も暗くなり、星も光を失う」とあります。だから想像しますとそれは「主の日」すなわち「裁きの日」また「怒りの日」とも言われるこの世の「終末」のような光景を思わせるのです。だからふと考えます。あの「エリ、エリ、・・・なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいるのは裁かれるわたしではないのか。神に裁かれて捨てられていくあの人物はわたし自身の最も孤独な姿を表しているのでは。でもその死の十字架につけられているのは紛れもないイエス・キリストでしかないのに。
またもうひとつ思い浮かびます。あの十字架の上で「エリ、エリ」と叫んでいるあの方の姿は何か見覚えがある。そうだ、確かにあの両手を広げている姿は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とわたしたちに同じように両手を広げて呼びかけ招いたあの方そのものではないか。不思議な気がします。あの方はあんなに両手を広げておられるのに、神からは見捨てられている。わたしたちを招いておられるのにご自分は父なる神から招かれずに死ぬままに放られている。さらにドキリとすることが聖書に書いてある。「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」』と言った」。
なんとそこに観客がいたのです。傍観者どころか檻の中の動物の仕草を観察するように面白可笑しく感想を述べ、苦しむイエス・キリストを評しているのです。物笑いの種にする者さえいました。誰一人あの方を労わろうとする者はなく、神の子は父からも人からも切り離されてしまう孤独の中に消されていくのでした。それこそが十字架につけられた方の死の姿の実態でした。
パウロは言います。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5章6節)。「わたしたちが弱かったころ・・・死んでくださった」。なぜパウロはわたしたちの弱さとキリストの死を関係づけたのでしょう。こう言った時のパウロの目に浮かんでいたのは、あの孤独な暗黒の中に十字架につけられた神の子の弱く無力な姿だったのではないでしょうか。そこから彼は「弱かった」わたしたちのために代わってキリストは十字架に死なれたと言おうとするのです。ここの「ために(ヒューペル)」は「代わって」という意味があります。
「わたしたちがまだ弱かった」とはたんに「無力だった、力がなかった」ということではないでしょう。そうではなく「わたしたちが自分そのものを十字架につけていた」その時のことをいうのです。それは自分で自分を責め裁いて罪と咎にがんじがらめに動けなくされていた在りようです。
その罪により自分を動けなくしていたわたしたちの過酷な運命をキリストは代わってご自分の痛みのようにしてそのまま背負われたのです。ご自分の十字架の死によってわたしたちの苦しみと死の終わりをあらわされたのです。
キルケゴールという人は「キリストのもとでの平安」をこう表現しています。「おお、驚くべし、キリストは言われる、わたしのもとに居続けなさい、あなたがたを休ませようと。わたしの十字架のもとにあなたの平安があると」。それはこういうことです。あなたに代わってあなたの十字架につながれ死なれたキリストこそあなたを安らがせ平安を与えてくださる方だと言います。キリストの痛み苦しみの中にほんとうの安らぎがあると。
さらにパウロは「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と言うのです。
思い浮かぶのは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言う言葉です。この招きをキリストは十字架上に実現されたのです。病人は孤独です。罪人は避けられます。その罪人をこそキリストは招くのです。ご自分の受難の十字架のもとの平安に。
6節に「定められた時に(・・・キリストは死んでくださった)」とあります。この「時」は「カイロス」というギリシア語で「好機、適時」の意味です。予定表やカレンダーの決まった時ではありません。「呼んだらピタリとそれに合わせるように答えてくださった」というように、たといどんな小さな求めにも呼応して答え招いて下さった十字架のキリストです。呼応の一致の時です。
5章のパウロのこの言葉はわたしたちに「臆せずに躊躇しないでキリストに行きなさい」と言っているようです。まだ罪の中におずおずとしていたわたしたちのためにご自分の十字架を示してくださったキリストを知った今は、愛されることに手をつなぐことに何の気おくれがあるものか。キリストの愛の広大さの中で生きようではないか。パウロはそう言うのです。
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