説教 20230305 マタイによる福音書9章27-31節
「信じているとおりになるように」
― 憐れみは人を生かす ―
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。道を行かれる主イエスから片時も離れまいとする甲高い声が往来に響きわたっていました。それは二人の盲人の叫び声でした。ついに迫ってきた二人に主イエスは彼らの見えるようになりたいという心の思いを察しこう問われたのです。「わたしにできると信じるのか」。間髪を置かずに「はい、主よ」と答える彼らにイエスは二人の閉ざされた目に触れて、こう答えるのでした、「あなたがたの信じているとおりになるように」。するとたちまちその盲人たちの目が開いて見えるようになったのでした。喜ぶ二人にイエスはこの癒しを「だれにも知らせてはいけない」と命じたのですが、二人はその地方一帯にこの奇跡の出来事を広めまわったのでした。
「福音書」はイエス・キリストが多くの人々、病気の人や体や心の不自由な人を癒したことを書いています。活動を始められた頃、主イエスに癒された人々は「重篤な皮膚病の人」や「中風の人」、「悪霊に憑かれた人」そして「目の見えない盲人」でした。なかでも「盲人の癒し」はどこか特別の描写に包まれているようで、ある特別な意味が込められているように思えるのです。
盲人の癒しでよく知られた出来事に主イエスがエルサレムに入られる直前に出会われた「バルテマイ」の癒しが三つの福音書にあります。またヨハネ福音書9章には「生まれつきの盲人」がイエスの唾でこねられた泥を目に塗られて「シロアムの池」で洗い落とすと見えるようになる物語があります。その他にマルコ福音書8章はベトサイダでの盲人の癒し、そして本日のマタイによる福音書9章の二人の盲人の癒しと、じつに盲目の癒しの記事はたくさんあります。
これらを合わせ読むと、ある特徴が浮かんできます。第1はこのマタイ9章もそうですが癒しを求める盲人が強くイエスに迫る様子です。あのバルテマイは最たるもので、求めは叫びに近く弟子が制止しようとするほどで、癒された彼の歓喜がじつに生き生きと描かれます。「シロアム池」の生まれつきの盲人の癒しはなんと9章全体にわたって描かれ主イエスとの対話が感銘深く書かれます。
聖書はとりわけ「盲目の癒し」に深い意味を込めていると思わざるをえません。視野を閉ざされた人間が必死に主イエスに追いすがり、じつに執拗に癒しを求めます。そして彼らは言います、「憐れんでください」。そう言わない箇所でも、イエス自身が彼を憐れまれます。この「憐れみ」は盲目の人の癒しの場面につねに対(つい)のように表わされ第2の特徴となっているのです。そして主イエスは心から憐れんで癒しを願う人間をほんとうに見える交わりへと生まれさせるのです。盲人はほんとうに「見えるようになりたい」とイエスに求めます。それがイエスに「できると信じる」とき、主イエスは彼を憐れみ、盲人への癒しを起こされます。それはイエスが彼に向き合われる生きた人格の出会いの出来事と言えるでしょう。癒しは真実に向き合う出会いの場と言えます。
ひとは一体、何を見ようと求めるのでしょうか。わたしはこの盲目を癒されて見えるようになりたいという人がほんとうは何を見たいと願っているのか考えざるをえません。彼らは何を見えるようになりたいのでしょう。また目の見えない人ばかりでなく見える人もいったい何を見ようとして懸命になりあえぐのでしょう。世界のモノの豊かさでしょうか。心を洗うような美しいものでしょうか。お金の山ですか。身の周りの生活の確実さですか。そうではないでしょう。ひとが「見たい」と願ってやまないものとは「人間」ではないでしょうか。見つめ合い向かい合う相手。対話する人間、語り合う友、助け合うパートナーです。これを二人の盲人は奪われていたのでした。盲目とは孤独のことです。人々から世界から置き去りされる悲しみ、苦悩です。でも主イエスが癒し、向かい合われるとき、すみずみまで一挙に世界が開かれるのです。
ルカの福音書11章33~36節を開きましょう。
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。
このイエスの言葉が盲目の癒しの意味と言えるでしょう。こう言うのです。「あなたを照らす光を見よ」。光はあなたを内側から照らしあなた自身も輝くようにする。その光はあなたを愛し、あなたの中に来る。あなたの闇を訪ね、あなたの住みかに共に住む。その光があなたを照らし、輝かせると信じるか。
盲目の癒しが行われるタイミングに気付くことがあります。この9章の後に弟子たちの派遣がなされます。イエスの福音が宣べ伝えられていきます。それよりも前に、目を見開かす盲目の癒しは外の世界に人を向かわせます。31節には「二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」、イエスが厳しく止めたにもかかわらずイエスを知らせたのです。
盲目の闇を照らし打ち破る光の姿が見えてきます。それはわたしたちに出会いを与える方、出会いの中で受難と十字架を負われる救い主イエスの姿です。わたしたちが光によって目を開くときそこにわたしたちに向かわれるキリストの十字架と苦難が見えてくるのです。
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