説教 20230219 創世記23章1-20節 「あなたよ、わが地に眠れ」
― 人生は神の約束へと帰る ―
「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」(2節)。
アブラハムと共に神の約束の地への旅を続けたサラは百二十七歳の生涯を閉じました。アブラハムは1は歳年上といいますから百三十七歳でした。彼の七十五歳に旅は始まり、以来62年間の歳月を共にしたパートナーとの別れでした。
死地は「カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロン」とあらためて書かれてありますが、言うまでもなくそこは二人が長年住んでいた地そのものです。ヘブロンは後にダビデが王となった時、神の言葉に従って人々と共に上って住んだ土地でありすなわちユダ王国の最初の都でした(サムエル下2章1節)。それは神が示した「約束の地カナン」がまさにこのヘブロンであったことをあらわしています。約束のカナンへの到着を描いた13章18節には「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」とあります。まさにアブラハムたちが約束の地として最初に住み着いた土地そのものです。
サラの遺体を前に「胸を打ち、嘆き悲しんだ」アブラハムの姿を想像すると同時にわたしは死んだラザロの墓の前に涙を流したイエス・キリストの悲しみを感じさせずにはおりません。そしてアブラハムは立ち上がって当地の住民であるヘト人に願って言いました。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」(4節)と。この願いにたいしヘト人は墓地の無償の提供を答えるのでしたが、アブラハムはあくまで「十分な銀」での有償による交換所有を申し出るのでした。
この墓地買い取りの交渉のいきさつはこの23章の大半を占めていて、記述は次第に所有者がツォハルの子エフロンで場所は畑の端でマクペラの洞穴の墓地というように具体的となり、ついに土地がアブラハムへと受け渡された様子がありありと描かれているのです。とくに14節から18節までの描写はちょうど「甲者エフロン」が「乙者アブラハム」に「契約物件マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑(土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含む)」を「通用銀400シェケル」で「証人として町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった」というかのように、まるで契約確認書のように思えます。
最近、日本の沖縄のある無人島を中国の女性が購入したという出来事がありました。中国では「これでこの島は中国の土地だ」というインターネットでの発言があったり、日本のテレビでニュースになり騒がれました。ある研究によればアブラハムはこうしてカナンの土地の権利獲得の第一歩を踏み出したと結論付けます。当地の住民の土地無償提供という所有者の恩義による獲得ではなく明瞭な金銭による対価交換であり永久に土地はアブラハムであるユダヤ人のものとなったと言います。だからこれから後、アブラハム自身が死んでその亡骸(なきがら)も同じマクペラの洞穴にサラと共に葬られます(25章9節)。ヤコブも同所に葬られ(49章29節)、イサクの葬りも同じように推定されます(35章27節)。
でも、この23章のカナンのマクペラの洞穴墓地の取得はそのままユダヤ民族によるカナンの地の獲得に結びつけて良いでしょうか。もし金銭による現実的合法的手続きとしての「土地」すなわち「国土」の獲得と結びつけたければ、それはアブラハムがカナンのその地マムレの樫の木の下つまり「ヘブロン」に最初に到着し住み着くその時点で土地を買うべきではないでしょうか。この23章の洞穴墓地の取得交渉は「国土」問題を念頭に置いているのでしょうか。そうではないと思います。
この物語は「墓地」の取得が描かれました。墓地とは何でしょう。墓地は人生の終結点そして集約点です。そしてその人の名前が刻み込まれます。人間は死んで葬礼が行われ、そこで故人の人生が顧みられます。とくに故人が目指した目標や仰いだ神そしてその為になした働きを振り返ります。その印が墓標です。
アブラハムは彼の人生を支え導いた神を仰ぎ、神の約束に従いました。そして地上の人生を支え目標となった神の約束を地に刻み付けようと墓地を求めたのです。彼らの墓は国土所有権の問題にあるのではなく神の約束をあらわすためにあるのです。墓に刻みつけられるべき名前は「土地の所有者」ではなく、神の恵みの約束のもと「人生の巡礼者」としてのサラやアブラハムの名前です。
わたしはここで思います。十字架から降ろされた死せるイエス・キリストがどこに葬られたかを伝える聖書の記述です。イエスの遺体を引き取りに願い出たのはイエスの家族でも弟子達でもありませんでした。ユダヤ社会の指導者であったアリマタヤ出身の議員ヨセフそしてヨハネ福音書によればユダヤ教の教師ニコデモでした。そして神の国を待ち望んでいた彼らは自分が葬られるべき墓にイエスの亡骸を葬ったのです。アブラハムは墓のためにこそ銀を払い、議員ヨセフと教師ニコデモは自分の墓へとイエスを求めて葬ったのです。
深く感じるのは約束の地へのアブラハムやサラの到達や居住の成功が記念されたのでなく彼らの死と墓が覚えられ墓標が刻まれたことです。到達や居住が祝われた記事はありません。日々の充実した生活が讃えられた場面もありません。アブラハムはここに至っても自分を「一時滞在する寄留者」と言っています。
聖書は教えます。あなたの墓にこそ神を招け、神の恵みの約束を招け。嘆き悲しむ死の墓の前で、人を生かす神の約束のあることを覚えよ。肉体も心も動けない暗黒の闇の中に導きの約束、救いの神の子がいてくださることを知ろうではないか。
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