説教 20230115 マタイによる福音書9章14-17節 「新しき命は死を滅ぼす」

― わがうちにキリストが生きる ―

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

  「パラリンピックを成功させるためには何が必要ですか」と質問されたとき一人のパラリンピック選手がこう答えました。「いえ何も必要ありません。立派な競技場も設備も大事ではありません。いちばん必要なのは真剣に闘い合うライバルです」と。パラリンピックを盛り上げるためにどんな会場を建てどんなルールにすべきか、という論議が沸騰している中で、彼はそう言いました。人々が「どんなかたちにしたらノーマライゼーションにふさわしいパラリンピックらしくなるか」とあれこれ言う時、「ライバルと闘うだけ」と彼は言ったのです。かたちではなく競うことそのものが大事だと。

 主イエスに先んじて神の国の到来を叫び、人々に洗礼の活動をしていた「洗礼者ヨハネ」がいました。主イエスと同じく彼も現状に甘んじるユダヤ教の律法主義に反対していました。そんなヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て言ったのでした。「どうしてあなたがたは断食しないのですか。わたしたちやファリサイ派はしているのに」。奇妙なことに反目しているはずのファリサイ派まで自分たちと同列に並べてヨハネの弟子たちは断食しない主イエスとその弟子を問うのです。

 でもまさにそこに洗礼者ヨハネの本音と限界が現れていたのです。一言で言って「断食」とは律法の特徴がもっともよく現れた宗教儀礼です。それは神の前に人間が禁欲的行為をつうじて逆に自分の「敬虔深さ」をあらわそうとするものです。もともと断食は神にまみえる畏れから断食したモーセとか我が子を失い哀願するダビデや主君サウルの死に悲しむ家臣らの断食などのように自然な苦痛の感情を表現するものでした。ところがバビロン捕囚解放後の宗教国家再建時代になると断食は自己破壊的な禁欲行為を律法化することでかえって自己誇大化や自分の正しさを誇ろうとする制度へと変化していったのでした。あの洗礼者ヨハネも律法の枠から出ていませんでした。ヨハネが民衆に広めた洗礼は人間の悔い改めの行為を強調するという点では律法主義的でした。到来する神の国に備えて己が身を清めようとするものです。自己を神の国にふさわしいように正し「格上げ」しようとする洗礼でした。自分の手で自分を神に向けて正当化するのです。

 ヨハネの弟子たちに主イエスは答えました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。それはメシアのことです。「メシアはもうすでに来ているのだ。世の救い主が力強く人々を癒し救う姿にどうして悲しむべきだろうか」。花婿とはメシアのことまさに主イエスのことです。むしろ主イエスは言われます、「今は断食の時ではない。今こそあなたがたがメシアを眼前に見て知る時なのだ」と。

 すでに山上の説教で主イエスは神の権威を現す者として教えました。町では数えきれない人々を癒して地上に「メシア」が到来していることを明らかにしていました。それは今すでに神がご自身の永遠の愛を人々に啓示しようとする新しい時が到来したのであり、けっして人間が救いを手に入れるために自分の敬虔ぶりや信仰らしさで身ごしらえをする時ではないのです。今や神の啓示の出来事を見る時であって己れの清廉潔白を増長する時ではない。

 ところが主イエスはここから一転して花婿であるメシアに起こる驚くべき出来事を語り始めるのです。続けて言います。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と。主イエスの言葉はみるみる苛烈になってきます。イエスはいまや「メシアの命と死」へとテーマを転換されます。そしてまさにこれこそが語られるメッセージの中心となります。

 「奪い取られる」とイエスは言います。それは「命が絶たれる」ことです。救いを成し遂げるそのメシアを目を見開いて凝視するとき、さらに見えてくる真のメシアの姿がある。それは人々を救ってやまないメシアがまさに命を奪われ死ぬ姿なのだと。その時にこそ断食すべし、悲しんで悔い改めるべしと主イエスは言います。

 さて、花婿すなわちメシアの悲惨の運命を語る主イエスの言葉がしだいに刃(やいば)のように鋭くなっていくことに驚かされませんか。イエスの言葉によって、断食という敬虔深さの静かな風景からわたしたちの視界は「奪う」とか「引き裂く」そして「破れ」というショッキングな情景へといやおうなく移されていくのです。そしてそんな過酷な言葉の中に貫かれている核心こそ断食に明け暮れする過去をすべて押し流す新しいメシアの時の到来なのです。イエスはメシアとしての自分の命と死を語っているのです。今まで誰も想像したことのないメシアの命と死です。

 そして「新しい布」です。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」。「布」は生活をあらわします。じつはそれはもう引き裂かれてしまったと言っているのです。新しい布はもう古い服を引き裂き破ったのです。主イエスは「破れないようにしなさい」などの注意事を言ってはおりません。「あなたがたはもう古い服を着ることができない」と言われるのです。ここにわたしたちの過去の生活をすべて切って投げ捨てたような峻厳さと清涼感のようなものをイエスの言葉から感じとれませんか。「わたしが来たからもうあなたがたは新しい服で生きる」と。

 さて最後に「新しいぶどう酒は新しい革袋に」が語られます。これは一般の金言名句本にも入っているくらい有名です。新しいものを生み出そうとするなら古い過去のやり方や考えに囚われるななどと。でもこうなるとまたまた教訓話です。新しいぶどう酒は酸性が強く劣化した古い革袋などすぐに分解して穴をあけてしまう。「だから」とイエスはただ「長持ちさせる」話をしようとはしません。

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」。すなわちイエスがわたしたちのうちに生きるというのです。「わたしの命は新しいあなたの人生の中で生きる。あなたは新しい革袋だ。わたしによって自由な生き方へと造り変えられた人間なのだ」と。古い革袋を引き裂くほどの「メシアの命」の生きるべき場所が明らかにされます。それは新しいぶどう酒によって古い革袋という罪から解放された人間です。そして神と隣人への自由な愛という強く柔軟な新しい革袋に生きるわたしたちやあなたのことです。聖餐に配られるぶどう酒はこの「イエスキリストの命」を思い浮かばせます。

 パウロはくりかえしこう言います。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています」(ローマの手紙の8章10節)。「体は罪によって死んでいても」。まるで祝福のように聞こえます。罪や弱さまみれの自分が死んでしまうならこれほどの救いはありません。そして「キリストがわたしたちの内におられ」て生きてくださるから、昨日までとは違うまったく新しいわたしたちが新しい時の中に生きていくのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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