説教 20221218 ルカによる福音書2章8-20節 「そこに命を見出せ」
― マリアは小さな命に仕えた ―
「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように」
クリスマスはマリアという一人の人間に起きた神の選びの出来事といえるでしょう。「わたしは主のはしためです」と自分を言いあらわした時、マリアの人生の中に選びのクリスマスは始まっていたのでした。マリアが言いあらわした「はしため」とはたんに「下賤な女」という意味では終わりません。聖書は「はしため」という名にただ「偉い者と卑しい者」という上下の身分秩序を表そうはしません。「みすぼらしい」とか「汚れた」とかの意味で終わらせません。むしろマリアは心から自由をもって「はしため」を「選択」するのです。彼女にとって「はしため(ドゥーロスすなわち僕べ・奴隷)」とは、今や彼女を「対話者」と決められた神の選びのもとにあろうとする者のことです。そして「神の言葉にひたすら耳を傾けて生きる者」であろうとするのです。マリアはこの時から神の選びに応答して立ち上がり、神が始められる救いの出来事の真っただ中に人生を置こうとするのです。
その告白こそが『マリアの讃歌』でした。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(1章47,48節)。
これがたんなるはしための口から出る言葉でしょうか。じつに力強い讃歌です。この讃歌を歌うマリアは、主である神の自由な選びに応答することで自分自身であろうとするのです。なぜなら神がまずマリアに「目を留め」られ、彼女を選ばれたからでした。「無」にすぎなかった「はしため」を神はその呼びかけに応える「はしため」へと変え、自由な愛のわざを実現しようとされます。恵みによってマリアに行われた「偉大なこと」が小さなマリアをもっとも「幸いな者」へと創造するのです。
ところが、さてそれではマリアにはどんな素晴らしい降誕の出来事が起きたのでしょうか、と読みますと、聖書はこの後マリアについてはあまり目を見張るようなことを書きません。かえって聖書の視点はマリアの心の内奥に向かっていくかのようです。仏教の逸話では、母親の摩耶は「白い象」を飲みこむ夢を見て「釈迦」を身ごもり、出産時には二頭の龍が現れて産湯を注ぎ、産み落とされた釈迦は立ち上がって「天上天下唯我独尊」と言ったと劇的な様子が伝えられています。それとは違い、イエス・キリストの降誕では皇帝アウグストの勅令に従容として従い、マリアは夫ヨセフの郷里ベツレヘムに帰ります。そして生まれた子をただの布にくるんで揺り籠ならぬ「飼い葉桶」に寝かせたというのです。出産時に栄光が輝いたわけでなく、大人びた新生児の声が響きわたったのでもなく、まったくふつうにマリアはイエスを産み落としたのです。ここには「こんなに高らかな讃歌を」と感嘆するような輝くようなマリアの姿はありません。出産を迎えたマリアはひとことも発せず、ただ自分の心の中に引きこもるように無言の姿として描かれていくのです。じつにこの無言の心の静けさこそ神と共にありのままにあるマリアの信仰のかたちと言えるでしょう。
むしろ降誕の劇的な情景は町から遠く離れた荒れ野の夜にふるえる羊飼いたちの様子に描かれます。まばゆい光の中に現れた天使は告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。羊飼いらはまばゆい天の大軍のグロリアインエクセルシスデオ、「栄光、神にあれ、地には平和」の讃美歌に動かされ、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見つけようと「急いで」駆け出します。そしてベツレヘムで「その出来事」つまり「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」という光景を見つけたのでした。
そして聖書はここに羊飼いにもわたしたちにも目を見張るようなような発見をさせます。「見聞きしたことがすべて天使の話したとおり」だったと聖書は言います。二つが結びつくのです。あの高らかな天使の宣言や夜空を轟かせた讃歌の興奮はついに静かに眠る「受肉」に行きついたのです。聖書はこう書きます。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。「心に納め」とは「秘蔵する」という意味です。もっとも大切な宝のように人には見せないで奥深くしまうことです。そして「思い巡らす」は「熟考する」で語源が「重さを量る」です。「重さを感じる」とも訳せます。「貴ぶ」と訳せるでしょう。それはマリアが心の奥深く神と共にある姿です。まさしくマリアの体の奥から乳児の命をつうじて彼女だけに呼びかけようとされる神に深く身を寄せ仕えようとする生き方です。
クリスマスは命を見い出す時です。それは偉大な命を見い出す時ではありません。もっとも小さな命を探し出し見い出す時です。神はクリスマスに英雄をお与えになりませんでした。英雄ではなく小さき幼な子を与えられました。やがて十字架へと変わる飼い葉桶に眠る幼な子を見よと神は言われます。
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