説教 20221106 ヨハネによる福音書17章1-8節 「神の子に従った人々」
― 神に愛されて隣人に仕える ―
山登りの諺に「あなたは何故山に登るの、それはそこに山があるから」と言うのがあります。じつはこれはキリスト教の有名な言葉をもじったものです。それは「あなたは何故愛するの、それはそこに人がいるから」という言葉です。
教会は「愛」を教えるところと言ってよいでしょう。では「愛」とは何でしょう。一言で言えばそれは「隣人を発見すること」です。もう少し具体的に言えば、自分の身の回りに大切にしなくてはいけない人間がいることそしてその人の思いに気付くことです。
今まで気づかないでいたけれど、心を澄まして目を向けてみるとなんと近くに自分にとって大切な人のいることか、驚きをもってわかってくることがあるのではないでしょうか。そしてその大切な人を発見し心に気づくことはたまらなく心が痛むこともあったり、とても心が熱くなったりするものです。
さっき「教会は愛を教えるところ」と言いました。だから言い換えれば教会は周りに大切な人がいますよ。発見しましょう。探しましょう」というところと言えるのです。
でも普段は周りにいる大切な人になかなか気付かなかったりするものです。いや、ひょっとすると一生気付かずに終わってしまうこともあるかもしれません。いくら多くの人と一緒にいてもまるで名も知らぬ群衆のように押し合いへし合いするだけです。これがわたしたち人間の弱いところです。キリスト教ではそれを「罪」と言います。全くダメな人間。でもそこで終わりません。人間はなかなかダメなもんだ、で終わらないのです。
どうして?聖書はこう言います。「神は人間を愛した。神はあなたを見つけ出し、そして自分の友のように大切にされた」と。
神がわたしたちを愛されたからわたしたちは互いに愛し助け合うことができるのです。わたしたちはいつもガムシャラに生き、自分さえよければいいと思っています。とても他人のことなど真っ先に考えません。目がつり上がって狼か亡者のように互いに傷つけあってしまいます。非常に残念な生き方をしています。自分じゃ自分をなんとも助けられないのです。
でもそんなわたしたちに「神は人間を愛した。神はあなたを見つけ出し、そして自分の友のように大切にされた」と言います。教会は大切な人間が見えてくるところです。
トルストイという小説家は「愛あるところに神がいます」と言いました。そして『靴屋のマルチン』というお話でこんなことを書きます。ある町にマルチンという老人が一人寂しく生きていた。ところがある日、夢でキリストが現れ「マルチン、クリスマスの日お前に会いに行くよ」と言うのです。嬉しくなったマルチンはその日食べ物や飲み物を用意して待っていましたが、なかなかキリストは現れません。そうこうしてると店の前に雪の中倒れている人や、ボロをまとった母親と赤んぼ、パンをくすねて捕まった少年なんかが次々にやってきて、彼らを温めたり食べさせたりお金をやってついに日が暮れてしまいました。眠りについたマルチンはまた夢を見ました。するとキリストが現れて言うのです「マルチン有難う。今日あなたはわたしに会ったんだよ。あの人たちは皆わたしだったんだよ」。驚くマルチンは理解しました。「神さまに会うってことはみんなに会うことなんだ。神さまが来てくれるってみんながやってくることなんだ」。これは人間発見の物語です。神を待ち続けた彼は大切な隣人に出会えたのです。
でもただ愛するのではありません。そこでわたしたちは心から自由になれるのです。盲導犬の訓練士さんに聞きました。盲導犬はどこまでも主人に忠実で従います。でも一番大切なことはこの主人を守るために自分の自由な判断で命令を破ることです。進もうとする主人に襲いかかる暴走車から主人をグッと引き留めるのです。
教会は「愛」を知るところ。それはわたしたちが神に愛されていることを知り、それを知ったならわたしたちも神を愛そうとし、周りの人々を大切にし心底から自由に愛そうとすることなのです。
0コメント